大判例

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最高裁判所大法廷 昭和44年(あ)1501号 判決

主文

原判決及び第一審判決を破棄する。

被告人を罰金五、〇〇〇円に処する。

被告人において右罰金を完納することができないときは、金一、〇〇〇円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置する。

原審及び第一審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

検察官の上告趣意四の(一)について。

第一本事件の経過

本件公訴事実の要旨は、被告人は、北海道宗谷郡猿払村の鬼志別郵便局に勤務する郵政事務官で、猿払地区労働組合協議会事務局長を勤めていたものであるが、昭和四二年一月八日告示の第三一回衆議院議員選挙に際し、右協議会の決定にしたがい、日本社会党を支持する目的をもつて、同日同党公認候補者の選挙用ポスター六枚を自ら公営掲示場に掲示したほか、その頃四回にわたり、右ポスター合計約一八四枚の掲示方を他に依頼して配布した、というものである。

国家公務員法(以下「国公法」という。)一〇二条一項は、一般職の国家公務員(以下「公務員」という。)に関し、「職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。」と規定し、この委任に基づき人事院規則一四―七(政治的行為)(以下「規則」という。)は、右条項の禁止する「政治的行為」の具体的内容を定めており、右の禁止に違反した者に対しては、国公法一一〇条一項一九号が三年以下の懲役又は一〇万円以下の罰金を科する旨を規定している。被告人の前記行為は、規則五項三号、六項一三号の特定の政党を支持することを目的とする文書すなわち政治的目的を有する文書の掲示又は配布という政治的行為にあたるものであるから、国公法一一〇条一項一九号の罰則が適用されるべきであるとして、起訴されたものである。

第一審判決は、右の事実は関係証拠によりすべて認めることができるとし、この事実は規則の右各規定に該当するとしながらも、非管理職である現業公務員であつて、その職務内容が機械的労務の提供にとどまるものが、勤務時間外に、国の施設を利用することなく、かつ、職務を利用せず又はその公正を害する意図なくして行つた規則六項一三号の行為で、労働組合活動の一環として行われたと認められるものに、刑罰を科することを定める国公法一一〇条一項一九号は、このような被告人の行為に適用される限度において、行為に対する制裁としては合理的にして必要最小限の域を超えるものであり、憲法二一条、三一条に違反するとの理由で、被告人を無罪とした。

原判決は、検察官の控訴を斥け、第一審判決の判断は結論において相当であると判示した。

検察官の上告趣意は、第一審判決及び原判決の判断につき、憲法二一条、三一条の解釈の誤りを主張するものである。

第二当裁判所の見解

一本件政治的行為の禁止の合憲性

第一審判決及び原判決が被告人の本件行為に対し国公法一一〇条一項一九号の罰則を適用することは憲法二一条、三一条に違反するものと判断したのは、民主主義国家における表現の自由の重要性にかんがみ、国公法一〇二条一項及び規則五項三号、六項一三号が、公務員に対し、その職種や職務権限を区別することなく、また行為の態度や意図を問題とすることなく、特定の政党を支持する政治的目的を有する文書を掲示又は配布する行為を、一律に違法と評価して、禁止していることの合理性に疑問があるとの考えに、基づくものと認められる。よつて、まず、この点から検討を加えることとする。

(一)  憲法二一条の保障する表現の自由は、民主主義国家の政治的基盤をなし、国民の基本的人権のうちでもとりわけ重要なものであり、法律によつてもみだりに制限することができないものである。そして、およそ政治的行為は、行動としての面をもつほかに、政治的意見の表明としての面をも有するものであるから、その限りにおいて、憲法二一条による保障を受けるものであることも、明らかである。国公法一〇二条一項及び規則によつて公務員に禁止されている政治的行為も多かれ少なかれ政治的意見の表明を内包する行為であるから、もしそのような行為が国民一般に対して禁止されるのであれば、憲法違反の問題が生ずることはいうまでもない。

しかしながら、国公法一〇二条一項及び規則による政治的行為の禁止は、もとより国民一般に対して向けられているものではなく、公務員のみに対して向けられているものである。ところで、国民の信託による国政が国民全体への奉仕を旨として行われなければならないことは当然の理であるが、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」とする憲法一五条二項の規定からもまた、公務が国民の一部に対する奉仕としてではなく、その全体に対する奉仕として運営されるべきものであることを理解することができる。公務のうちでも行政の分野におけるそれは、憲法の定める統治組織の構造に照らし、議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実を遂行を期し、もつぱら国民全体に対する奉仕を旨とし、政治的偏向を排して運営されなければならないものと解されるのであつて、そのためには、個々の公務員が、政治的に、一党一派に偏することなく、厳に中立の立場を堅持して、その職務の遂行にあたることが必要となるのである。すなわち、行政の中立的運営が確保され、これに対する`国民の信頼が維持されることは、憲法の要請にかなうものであり、公務員の政治的中立性が維持されることは、国民全体の重要な利益にほかならないというべきである。したがつて、公務員の政治的中立性を損うおそれのある公務員の政治的行為を禁止することは、それが合理的で必要やむをえない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるといわなければならない。

(二)  国公法一〇二条一項及び規則による公務員に対する政治的行為の禁止が右の合理的で必要やむをえない限度にとどまるものか否かを判断するにあたつては、禁止の目的、この目的と禁止される政治的行為との関連性、政治的行為を禁止することにより得られる利益と禁止することにより失われる利益との均衡の三点から検討することが必要である。

そこで、まず、禁止の目的及びこの目的と禁止される行為との関連性について考えると、もし公務員の政治的行為のすべてが自由に放任されるときは、おのずから公務員の政治的中立性が損われ、ためにその職務の遂行ひいてはその属する行政機関の公務の運営に党派的偏向を招くおそれがあり、行政の中立的運営に対する国民の信頼が損われることを免れない。また、公務員の右のような党派的偏向は、逆に政治的党派の行政への不当な介入を容易にし、行政の中立的運営が歪められる可能性が一層増大するばかりでなく、そのような傾向が拡大すれば、本来政治的中立を保ちつつ一体となつて国民全体に奉仕すべき責務を負う行政組織の内部に深刻な政治的対立を醸成し、そのため行政の能率的で安定した運営は阻害され、ひいては議会制民主主義の政治過程を経て決定された国の政策の忠実な遂行にも重大な支障をきたすおそれがあり、このようなおそれは行政組織の規模の大きさに比例して拡大すべく、かくては、もはや組織の内部規律のみによつてはその弊害を防止することができない事態に立ち至るのである。したがつて、このような弊害の発生を防止し、行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するため、公務員の政治的中立性を損うおそれのある政治的行為を禁止することは、まさしく憲法の要請に応え、公務員を含む国民全体の共同利益を擁護するための措置にほかならないのであつて、その目的は正当なものというべきである。また、右のような弊害の発生を防止するため、公務員の政治的中立性を損うおそれがあると認められる政治的行為を禁止することは、禁止目的との間に合理的な関連性があるものと認められるのであつて、たとえその禁止が、公務員の職種・職務権限、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無等を区別することなく、あるいは行政の中立的運営を直接、具体的に損う行為のみに限定されていないとしても、右の合理的な関連性が失われるものではない。

次に、利益の均衡の点について考えてみると、民主主義国家においては、できる限り多数の国民の参加によつて政治が行われることが国民全体にとつて重要な利益であることはいうまでもないのであるから、公務員が全体の奉仕者であることの一面のみを強調するあまり、ひとしく国民の一員である公務員の政治的行為を禁止することによつて右の利益が失われることとなる消極面を軽視することがあつてはならない。しかしながら、公務員の政治的中立性を損うおそれのある行動類型に属する政治的行為を、これに内包される意見表明そのものの制約をねらいとしてではなく、その行動のもたらす弊害の防止をねらいとして禁止するときは、同時にそれにより意見表明の自由が制約されることにはなるが、それは、単に行動の禁止に伴う限度での間接的、付随的な制約に過ぎず、かつ、国公法一〇二条一項及び規則の定める行動類型以外の行為により意見を表明する自由までをも制約するものではなく、他面、禁止により得られる利益は、公務員の政治的中立性を維持し、行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するという国民全体の共同利益なのであるから、得られる利益は、失われる利益に比してさらに重要なものというべきであり、その禁止は利益の均衡を失するものではない。

(三)  以上の観点から本件で問題とされている規則五項三号、六項一三号の政治的行為をみると、その行為は、特定の政党を支持する政治的目的を有する文書を掲示し又は配布する行為であつて、政治的偏向の強い行動類型に属するものにほかならず、政治的行為の中でも、公務員の政治的中立性の維持を損うおそれが強いと認められるものであり、政治的行為の禁止目的との間に合理的な関連性をもつものであることは明白である。また、その行為の禁止は、もとよりそれに内包される意見表明そのものの制約をねらいとしたものではなく、行動のもたらす弊害の防止をねらいとしたものであつて、国民全体の共同利益を擁護するためのものであるから、その禁止により得られる利益とこれにより失われる利益との間に均衡を失するところがあるものとは、認められない。したがつて、国公法一〇二条一項及び規則五項三号、六項一三号は、合理的で必要やむをえない限度を超えるものとは認められず、憲法二一条に違反するものということはできない。

(四)  ところで、第一審判決は、その違憲判断の根拠として、被告人の本件行為が、非管理職である現業公務員でその職務内容が機械的労務の提供にとどまるものにより、勤務時間外に、国の施設を利用することなく、かつ、職務を利用せず又はその公正を害する意図なく、労働組合活動の一環として行われたものであることをあげ、原判決もこれを是認している。しかしながら、本件行為のような政治的行為が公務員によつてされる場合には、当該公務員の管理職・非管理職の別、現業・非現業の別、裁量権の範囲の広狭などは、公務員の政治的中立性を維持することにより行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保しようとする法の目的を阻害する点に、差異をもたらすものではない。右各判決が、個々の公務員の担当する職務を問題とし、本件被告人の職務内容が裁量の余地のない機械的業務であることを理由として、禁止違反による弊害が小さいものであるとしている点も、有機的統一体として機能している行政組織における公務の全体の中立性が問題とされるべきものである以上、失当である。郵便や郵便貯金のような業務は、もともと、あまねく公平に、役務を提供し、利用させることを目的としているのであるから(郵便法一条、郵便貯金法一条参照)、国民全体への公平な奉仕を旨として運営されなければならないのであつて、原判決の指摘するように、その業務の性質上、機械的労務が重い比重を占めるからといつて、そのことのゆえに、その種の業務に従事する現業公務員を公務員の政治的中立性について例外視する理由はない。また、前述のような公務員の政治的行為の禁止の趣旨からすれば、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無、職務利用の有無などは、その政治的行為の禁止の合憲性を判断するうえにおいては、必ずしも重要な意味をもつものではない。さらに、政治的行為が労働組合活動の一環としてなされたとしても、そのことが組合員である個々の公務員の政治的行為を正当化する理由となるものではなく、また、個々の公務員に対して禁止されている政治的行為が組合活動として行われるときは、組合員に対して統制力をもつ労働組合の組織を通じて計画的に広汎に行われ、その弊害は一層増大することとなるのであつて、その禁止が解除されるべきいわれは少しもないのである。

(五)  第一審判決及び原判決は、また、本件政治的行為によつて生じる弊害が軽微であると断定し、そのことをもつてその禁止を違憲と判断する重要な根拠としている。しかしながら、本件における被告人の行為は、衆議院議員選挙に際して、特定の政党を支持する政治的目的を有する文書を掲示し又は配布したものであつて、その行為は、具体的な選挙における特定政党のためにする直接かつ積極的な支援活動であり、政治的偏向の強い典型的な行為というのほかなく、このような行為を放任することによる弊害は、軽微なものであるとはいえない。のみならず、かりに特定の政治的行為を行う者が一地方の一公務員に限られ、ために右にいう弊害が一見軽微なものであるとしても、特に国家公務員については、その所属する行政組織の機構の多くは広範囲にわたるものであるから、そのような行為が累積されることによつて現出する事態を軽視し、その弊害を過小に評価することがあつてはならない。

二本件政治的行為に対する罰則の合憲性

第一審判決は、また、たとえ公務員の政治的行為を違法と評価してこれを禁止することが憲法二一条に違反しないとしても、その禁止の違反に対し罰則を適用することについては、さらに憲法二一条、三一条違反の問題を生じうるとの考えに立ち、国公法の立法過程にふれたうえ、その罰則は被告人の本件行為に対し適用する限度において違憲であると結論し、原判決もこれを支持するのである。よつて、この点について検討を加えることとする。

(一)  およそ刑罰は、国権の作用による最も峻厳な制裁であるから、特に基本的人権に関連する事項につき罰則を設けるには、慎重な考慮を必要とすることはいうまでもなく、刑罰規定が罪刑の均衡その他種々の観点からして著しく不合理なものであつて、とうてい許容し難いものであるときは、違憲の判断を受けなければならないのである。そして、刑罰規定は、保護法益の性質、行為の態様・結果、刑罰を必要とする理由、刑罰を法定することによりもたらされる積極的・消極的な効果・影響などの諸々の要因を考慮しつつ、国民の法意識の反映として、国民の代表機関である国会により、歴史的、現実的な社会的基盤に立つて具体的に決定されるものであり、その法定刑は、違反行為が帯びる違法性の大小を考慮して定められるべきものである。

ところで、国公法一〇二条一項及び規則による公務員の政治的行為の禁止は、上述したとおり、公務員の政治的中立性を維持することにより、行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するという国民全体の重要な共同利益を擁護するためのものである。したがつて、右の禁止に違反して国民全体の共同利益を損う行為に出る公務員に対する制裁として刑罰をもつて臨むことを必要とするか否かは、右の国民全体の共同利益を擁護する見地からの立法政策の問題であつて、右の禁止が表現の自由に対する合理的で必要やむをえない制限であると解され、かつ、刑罰を違憲とする特別の事情がない限り、立法機関の裁量により決定されたところのものは、尊重されなければならない。

そこで、国公法制定の経過をみると、当初制定された国公法(昭和二二年法律第一二〇号)には、現行法の一一〇条一項一九号のような罰則は設けられていなかつたところ、昭和二三年法律第二二二号による改正の結果右の規定が追加されたのであるが、その後昭和二五年法律第二六一号として制定された地方公務員法においては、初め政府案として政治的行為をあおる等の一定の行為について設けられていた罰則規定は、国会審議の過程で削除された。その際、国公法の右の罰則は、地方公務員法についての右の措置にもかかわらず、あえて削除されることなく今日に至つているのであるが、そのことは、ひとしく公務員であつても、国家公務員の場合は、地方公務員の場合と異なり、その政治的行為の禁止に対する違反が行政の中立的運営に及ぼす弊害に逕庭があることからして、罰則を存置することの必要性が、国民の代表機関である国会により、わが国の現実の社会的基盤に照らして、承認されてきたものとみることができる。

そして、国公法が右の罰則を設けたことについて、政策的見地からする批判のあることはさておき、その保護法益の重要性にかんがみるときは、罰則制定の要否及び法定刑についての立法機関の決定がその裁量の範囲を著しく逸脱しているものであるとは認められない。特に、本件において問題とされる規則五項三号、六項一三号の政治的行為は、特定の政党を支持する政治的目的を有する文書の掲示又は配布であつて、前述したとおり、政治的行為の中でも党派的偏向の強い行動類型に属するものであり、公務員の政治的中立性を損うおそれが大きく、このような違法性の強い行為に対して国公法の定める程度の刑罰を法定したとしても、決して不合理とはいえず、したがつて、右の罰則が憲法三一条に違反するものということはできない。

(二)  また、公務員の政治的行為の禁止が国民全体の共同利益を擁護する見地からされたものであつて、その違反行為が刑罰の対象となる違法性を帯びることが認められ、かつ、その禁止が、前述のとおり、憲法二一条に違反するものではないと判断される以上、その違反行為を構成要件として罰則を法定しても、そのことが憲法二一条に違反することとなる道理は、ありえない。

(三)  右各判決は、たとえ公務員の政治的行為の禁止が憲法二一条に違反しないとしても、その行為のもたらす弊害が軽微なものについてまで一律に罰則を適用することは、同条に違反するというのであるが、違反行為がもたらす弊害の大小は、とりもなおさず違法性の強弱の問題にほかならないのであるから、このような見解は、違法性の程度の問題と憲法違反の有無の問題とを混同するものであつて、失当というほかはない。

(四)  原判決は、さらに、規制の目的を達成しうる、より制限的でない他の選びうる手段があるときは、広い規制手段は違憲となるとしたうえ、被告人の本件行為に対する制裁としては懲戒処分をもつて足り、罰則までも法定することは合理的にして必要最小限度を超え、違憲となる旨を判示し、第一審判決もまた、外国の立法例をあげたうえ、被告人の本件行為のような公務員の政治的行為の禁止の違反に対して罰則を法定することは違憲である旨を判示する。

しかしながら、各国の憲法の規定に共通するところがあるとしても、それぞれの国の歴史的経験と伝統はまちまちであり、国民の権利意識や自由感覚にもまた差異があるのであつて、基本的人権に対して加えられる規制の合理性についての判断基準は、およそ、その国の社会的基盤を離れて成り立つものではないのである。これを公務員の政治的行為についてみるに、その規制を公務員自身の節度と自制に委ねるか、特定の政治的行為に限つて禁止するか、特定の公務員のみに対して禁止するか、禁止違反に対する制裁をどのようなものとするかは、いずれも、それぞれの国の歴史的所産である社会的諸条件にかかわるところが大であるといわなければならない。したがつて、外国の立法例は、一つの重要な参考資料ではあるが、右の社会的諸条件を無視して、それをそのままわが国にあてはめることは、決して正しい憲法判断の態度ということはできない。

いま、わが国公法の規定をみると、公務員の政治的行為の禁止の違反に対しては、一方で、前記のとおり、同法一一〇条一項一九号が刑罰を科する旨を規定するとともに、他方では、同法八二条が懲戒処分を課することができる旨を規定し、さらに同法八五条においては、同一事件につき懲戒処分と刑事訴追の手続を重複して進めることができる旨を定めている。このような立法措置がとられたのは、同法による懲戒処分が、もともと国が公務員に対し、あたかも私企業における使用者にも比すべき立場において、公務員組織の内部秩序を維持するため、その秩序を乱す特定の行為について課する行政上の制裁であるのに対し、刑罰は、国が統治の作用を営む立場において、国民全体の共同利益を擁護するため、その共同利益を損う特定の行為について科する司法上の制裁であつて、両者がその目的、性質、効果を異にするからにほかならない。そして、公務員の政治的行為の禁止に違反する行為が、公務員組織の内部秩序を維持する見地から課される懲戒処分を根拠づけるに足りるものであるとともに、国民全体の共同利益を擁護する見地から科される刑罰を根拠づける違法性を帯びるものであることは、前述のとおりであるから、その禁止の違反行為に対し懲戒処分のほか罰則を法定することが不合理な措置であるとはいえないのである。

このように、懲戒処分と刑罰とは、その目的、性質、効果を異にする別個の制裁なのであるから、前者と後者を同列に置いて比較し、司法判断によつて前者をもつてより制限的でない他の選びうる手段であると軽々に断定することは、相当ではないというべきである。

なお、政治的行為の定めを人事院規則に委任する国公法一〇二条一項が、公務員の政治的中立性を損うおそれのある行動類型に属する政治的行為を具体的に定めることを委任するものであることは、同条項の合理的な解釈により理解しうるところである。そして、そのような政治的行為が、公務員組織の内部秩序を維持する見地から課される懲戒処分を根拠づけるに足りるものであるとともに、国民全体の共同利益を擁護する見地から科される刑罰を根拠づける違法性を帯びるものであることは、すでに述べたとおりであるから、右条項は、それが同法八二条による懲戒処分及び同法一一〇条一項一九号による刑罰の対象となる政治的行為の定めを一様に委任するものであるからといつて、そのことの故に、憲法の許容する委任の限度を超えることになるものではない。

(五)  右各判決は、また、被告人の本件行為につき罰則を適用する限度においてという限定を付して右罰則を違憲と判断するのであるが、これは、法令が当然に適用を予定している場合の一部につきその適用を違憲と判断するものであつて、ひつきよう法令の一部を違憲とするにひとしく、かかる判断の形式を用いることによつても、上述の批判を免れうるものではない。

第三結論

以上のとおり、被告人の本件行為に対し適用されるべき国公法一一〇条一項一九号の罰則は、憲法二一条、三一条に違反するものではなく、また、第一審判決及び原判決の判示する事実関係のもとにおいて、右罰則を被告人の右行為に適用することも、憲法の右各法条に違反するものではない。第一審判決及び原判決は、いずれも憲法の右各法条の解釈を誤るものであるから、論旨は理由がある。よつて、上告趣意中のその余の所論に対する判断を省略し、刑訴法四一〇条一項本文により第一審判決及び原判決を破棄し、直ちに判決をすることができるものと認めて、同法四一三条但書により被告事件についてさらに判決する。

第一審判決の認定した事実(第一審第一回公判調書中の被告人の供述記載、被告人、並河誠一、越智良九、牧野邦昭、白取兢、山川健二、立野政男の検察官に対する各供述調書による。)に法令を適用すると、被告人の各行為は、いずれも国公法一一〇条一項一九号(刑法六条、一〇条により罰金額の寡額は昭和四七年法律第六一号による改正前の罰金等臨時措置法二条一項所定の額による。)、一〇二条一項、規則五項三号、六項一三号に該当するので、所定刑中いずれも罰金刑を選択し、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから、同法四八条二項により各罪につき定めた罰金の合算額以下において被告人を罰金五、〇〇〇円に処し、同法一八条により被告人において右罰金を完納することができないときは金一、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置し、刑訴法一八一条一項本文により原審及び第一審における訴訟費用は被告人の負担とし、主文のとおり判決する。

この判決は、裁判官大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の反対意見は、次のとおりである。

検察官の上告趣意について。

本件の経過は多数意見記載のとおりであり、検察官の上告趣意は、第一審判決及び原判決の判断につき、憲法二一条、三一条の解釈の誤りと判例違反とを主張するものである。

思うに、国公法一〇二条一項は、公務員に関して、「職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。」と規定し、これに基づいて規則一四―七は、右条項の禁止する「政治的行為」の内容を詳細に定めている。そして右条項及びこれに基づく規則の違反に対しては、国公法八二条以下に懲戒処分、同法一一〇条一項一九号に刑事制裁が定められている。すなわち、国公法一〇二条一項は、違反に対する制裁の関連からいえば、公務員につき禁止されるべき政治的行為に関し、懲戒処分を受けるべきものと、犯罪として刑罰を科せられるべきものとを区別することなく、一律一体としてその内容についての定めを人事院規則に委任している。このような立法の委任は、少なくとも後者、すなわち、犯罪の構成要件の規定を委任する部分に関するかぎり、憲法に違反するものと考える。その理由は、次のとおりである。

第一基本的人権としての政治活動の自由と公務員の政治的中立。

一政治活動の自由に関する基本的人権の重要性(憲法一五条一項、一六条、二一条)。

およそ国民の政治活動の自由は、自由民主主義国家において、統治権力及びその発動を正当づける最も重要な根拠をなすものとして、国民の個人的人権の中でも最も高い価値を有する基本的権利である。政治活動の自由とは、国民が、国の基本的政策の決定に直接間接に関与する機会をもち、かつ、そのための積極的な活動を行う自由のことであり、それは、国の基本的政策の決定機関である国会の議員となり、又は右議員を選出する手続に様々の形で関与し、あるいは政党その他の政治的団体を結成し、これに加入し、かつ、その一員として活動する等狭義の政治過程に参加することの外、このような政治過程に働きかけ、これに影響を与えるための諸活動、例えば政治的集会、集団請願等の集団行動的なものから、様々の方法、形態による単なる個人としての政治的意見の表明に至るまで、極めて広い範囲にわたる行為の自由を含むものである。このように、政治活動の自由は、単なる政治的思想、信条の自由のような個人の内心的自由にとどまるものではなく、これに基づく外部的な積極的、社会的行動の自由をその本質的性格とするものであり、わが憲法は、参政権に関する一五条一項、請願権に関する一六条、集会、結社、表現の自由に関する二一条の各規定により、これを国民の基本的人権の一つとして保障しているのである。

もとより、右のような基本的人権としての政治活動の自由も、絶対無制限のものではなく、公共の利益のために真にやむをえない場合には、多かれ少なかれ何らかの制限に服することをまぬかれないが、積極的な政治活動はその性質上その時々の政府の見解や利益と対立、衝突しがちであるため、とかく政治権力による制限を受けやすいことにかんがみるときは、このような制限がされる場合には、その理由を明らかにし、その制限が憲法上十分の正当性をもつものであるかどうかにつき、特に慎重な吟味検討を施すことが要請されるものといわなければならない。

二公務員の政治的中立(憲法一五条二項)。

国家公務員もまた、国民の一人として、右に述べた政治活動の自由を憲法上保障されているわけであるが、国公法一〇二条及び同条一項に基づく規則は、公務員に属する者の政治活動に対し、前記のような制限を加えている。その理由は、おおよそ次のごときものと考えられる。すなわち、国公法は、日本国憲法のもとにおいて、国の行政に従事する公務員につき、「国民に対し、公務の民主的かつ能率的な運営を保障する」目的(同法一条)から、成績制を根幹とする公務員制度を採用しているが、この成績制公務員制度においては、いわゆる中立性の原則がその本質的なものとされている。けだし、公務員は、国民を直接代表する立法府の政治的意思を忠実に実行すべきものであつて、自己の政治的意思に従つて行政の運営にあたつてはならないとともに、近代民主国家における政治(立法)と行政の分離の要請に基づき、政治と行政の混こう、政治の介入による行政のわい曲を防止しなければならないからである。そして、国公法がこのような公務員制度を採用したことは、公務員が国民全体の奉仕者たるべきことを定めた憲法一五条二項の趣旨及び精神にも合致するものということができる。

三右一、二の関係と憲法。

国公法の採用した右のような公務員制度の趣旨及び性格、なかんずく公務員の政治的中立性の原則からするときは、公務員は、ひとり実際の行政運営において政治的な利害や影響に基づく、法に忠実でない行政活動を厳に避けなければならないばかりでなく、現実にこのような行政のわい曲をもたらさないまでも、その危険性を生じさせたり、又は第三者からそのような疑惑を抱かれる原因となるような政治的性格をもつ行動を避けるべきことが要請される。のみならず、公務員は、多かれ少なかれ国政の運営に関与するものであるから、それが集団的、組織的に政治活動を行うときは、それ自体が大きい政治的勢力となり、その過大な影響力の行使によつて民主的政治過程を不当にわい曲する危険がないとはいえない。国の行政が国の存立と円満な国民生活の維持のうえで必要不可欠なものであり、行政の政治的中立性が右に述べたように極めて重要な要請であることを考えるときは、公務員に対し、その職務を離れて専ら一市民としての立場においてする政治活動についても、一定の制限を課すべき公共的な利益と必要が存することは、これを否定することができないのである。

しかしながら、このことから直ちに、一般的、抽象的に公務員の個人的基本権としての政治活動の自由を行政の中立性の要請に従属させ、その目的のために必要と認められるかぎり、右政治活動の自由に対していかなる制限を課しても憲法上是認されるとの結論を導き出すことはできない。けだし、ひとしく公務員といつても、それが属する行政主体の事業の内容及び性質、その中における公務員の地位、職務の内容及び性質は多種多様であり、またそれらの公務員が行う政治活動の種類、性質、態様、規模、程度も区々であつて、これらの多様性に応じ、公務員の特定の政治活動が行政の中立性に及ぼす影響の性質及び程度、並びにその禁止が公務員の個人的基本権としての政治活動の自由に対して及ぼす侵害の意義、性質、程度及び重要性にも大きな相違が存するからである。それゆえ、前記の相反する二つの法益ないしは要求の間に調整を施すにあたつても、右に述べた相違を考慮し、より具体的、個別的に両法益の相互的比重を吟味検討し、真に行政の中立性保持の利益の前に公務員の政治活動の自由が退かなければならない場合、かつ、その限度においてのみこれを制限するとの態度がとられなければならない。のみならず、ひとり制限されるべき政治活動の範囲及び内容ばかりでなく、制限の方法、態様においてもその性質、効果を異にするのであるから、この点もまた、右の問題を解決するうえにおいて重要な要素であることを失わない。そして、以上に述べたことは、ひとり国会の専権に属する立法政策上の問題であるにとどまらず、また、憲法の要求するところでもあるというべきである。

第二国公法一〇二条一項における犯罪構成要件(同法一一〇条一項一九号)についての立法委任の違憲性。

一公務員関係の規律の対象となる政治的行為と刑罰権の対象となる政治的行為についてそれぞれの内容、範囲を区別することなく、一律に人事院規則に委任していることの問題点(国公法八二条、一一〇条一項一九号)。

国公法一〇二条は、冒頭記述のとおり、公務員の政治活動に関して若干の特定の形態の行為を直接禁止した外は、選挙権の行使を除き人事院規則で定める政治的行為を一般的に禁止するものとし、禁止行為の具体的内容及び範囲の決定を人事院に一任するとともに、その禁止の方法においても、これを単に公務員関係上の権利義務の問題として規定するにとどまらず、刑事制裁を伴う犯罪として扱うべきものとしている。国公法におけるこのような規制の方法は、同法に基づく規則における具体的禁止規定の内容の適否を離れても、それ自体として重大な憲法上の問題を惹起するものと考える。すなわち、

(い) 公務員関係の規律として公務員の一定の政治的行為を禁止する場合と、かかる関係を離れて刑罰権の対象となる一個人としてその者の政治的行為を禁止する場合とでは、憲法上是認される制限の範囲に相違を生ずべきものであり、この両者を同視して一律にこれを定めることは、それ自体として憲法一五条一項、一六条、二一条、三一条に違反するのではないかという問題があり、

(ろ) 国会が公務員の政治的行為を規制するにあたり、直接公務員の政治活動の制限の要否を具体的に検討しその範囲を決定することなく、人事院にこれを一任することは、立法府が公開の会議(憲法五七条)において国民監視のもとに自ら行うべき立法作用の本質的部分を放棄して非公開の他の国家機関に移譲するものであつて、憲法四一条に違反するのではないかという問題があり、

(は) 右(い)と(ろ)の問題の関連において、懲戒原因としての政治的行為の禁止と可罰原因としてのそれを区別することなく一律にその具体的規定を規則に委任することは、委任自体として憲法に違反するのではないかという問題があるのである。

これらの問題は、事の性質上、右授権に基づいて制定された規則における具体的禁止規定の内容の適否の問題に入る以前において検討、決定されるべき問題であるといわなければならない。

二右一についての詳論。

(一) 公務員関係の規律の対象となる政治的行為と刑罰権の対象となる政治的行為とでは、その内容、範囲についてそれぞれ憲法上の区別があること(憲法一五条一項、一六条、二一条、三一条)。

(1) 公務員関係の規律の対象となる政治的行為について(憲法七三条四号、一五条、一六条、二一条、国公法一〇二条一項、八二条)。

公務員と国との間に成立する法律関係は、公務員としての職務活動に自己の労働力を提供する個人と、これを使用して公務を遂行する国との間に成立する権利義務の関係であり、基本的には双方の意思に基づいて成立し、その内容は、法律によつて直接これを規定しないかぎり、本来は当事者の合意によつて決定されうるところのものである。しかし、公務員関係の内容をすべて当事者の合意によつて定めることは適当でなく、他方、憲法はこの問題を行政主体の完全な裁量に委ねず、法律で定める基準に従つて処理すべきものとしている(七三条四号)ので、公務員関係の法的内容は、実際においては、国公法をはじめとする関係諸法律によつて詳細に規定され、その具体的内容は、公務員関係の成立の基礎となる任用の方法、基準、手続、勤務時間、給与、勤務上の地位の異動等の勤務条件に関する基準、公務員の勤務上及び勤務外の行為に関する規律、公務員関係内における紛争の処理等極めて広い範囲にわたつている。

このように、公務員関係を規制すべき法内容を定めるにあたつては、立法機関としての国会が広い裁量権を有し、国会は、日本国憲法のもとにおいていかなる公務員制度が最も望ましいかを考え、その構想のもとに、その具体化のための措置を講ずることができるのであつて、国会が具体的に採用、決定した立法措置は、憲法上是認しうる目的のために必要又は適当であると合理的に判断しうる範囲にとどまるかぎり、憲法に適合する有効なものであるとしなければならない。

国公法一〇二条における公務員に対する政治的行為の禁止もまた、前述のような公務員制度の具体化の一環として、公務員関係内における公務員の職務上又は職務外における義務又は負担の一つとして定められたものと認められるのであり、その目的ないしは理由が、国公法の採用した成績制公務員制度における公務員の政治的中立性の要請にこたえるにあり、公務員の任免、昇進、異動の面における政治的考慮ないしは影響の排除の反面として、公務員自身に対しても一定範囲における政治的中立性遵守の義務を課したものであることは、さきに述べたとおりである。

そして、成績制公務員制度が憲法の精神に適合するものであり、かかる制度の要請する公務員の政治的中立性の保持が憲法上是認される目的に基づくものである以上、たとえ政治活動の自由が憲法における最も重要な個人的基本権であるとしても、自らの意思に基づいて国との間に公務員関係という一定の法律関係に入る者に対し、かかる法律関係の一内容として、前記の目的を達するために必要かつ相当であると合理的に認められる範囲において右権利に対する制約を加えることは、憲法上許されるところであるとしなければならない。

また、右の基準のもとにおける制限の必要性に関する国会の判断の合理性については、前記のような国会の裁量権の広範性にかんがみ、必ずしも特定の政治的行為が公務員の政治的中立性を侵害する現実の危険を伴うかどうかというような厳格、狭あいな視点にのみ限局されることなく、より広くその種の行為が一般的に右のような侵害の抽象的危険性を有するかどうかという点をも考慮に入れることが許されるというべきである。それゆえ、国公法一〇二条における政治的行為の禁止は、その違反に対し公務員関係上の義務違反に対する制裁としての懲戒によつて強制されるべき義務を設定するものであるかぎりにおいては、右の基例準に照らしてその合憲性を決定すべく、この基準に適合するかぎり、これを違憲とする理由はないのである。

(2) 刑罰権の対象となる公務員の政治的行為について(憲法一五条一項、一六条、二一条、三一条)。

およそ刑罰は、一般統治権に基づき、その統治権に服する者に対して一方的に行使される最も強力な権能であり、国家が一般統治上の見地から特に重大な反国家性、反社会性をもつと認める個人の行為、すなわち、国家、社会の秩序を害する行為に対してのみ向けられるべきものである。単なる私人間の法律関係上の義務違背や、公私の団体又は組織の内部的規律侵犯行為のように、間接に国家、社会の秩序に悪影響を及ぼす危険があるにすぎない行為は、当然には処罰の対象とはなりえない。一般に個人の自由は、多種多様の関係において種々の理由により法的拘束を受けるが、それらの拘束が法的に是認される範囲は、それぞれの関係と理由において必ずしも同一ではないのであつて、公務員の政治活動の自由についても、事は同様である。究極的には当事者の合意に基づいて成立する公務員関係上の権利義務として公務員の政治活動の自由に課せられる法的制限と、一般統治権に基づき刑罰の制裁をもつて課せられるかかる自由の制限とは、その目的、根拠、性質及び効果を全く異にするのであり、このことにこそ民事責任との分化と各その発展が見られるのである。したがつてまた、右両種の制限が憲法上是認されるかどうかについても、おのずから別個に考察、論定されなければならないのであつて、公務員が公務外において一市民としてする政治活動を刑罰の制裁をもつて制限、禁止しうる範囲は、一般に国が一定の統治目的のために、国民の政治活動を刑罰の制裁をもつて制限、禁止する場合について適用される憲法上の基準と原理とによつて、決せられなければならないのである。

右の見地に立つて考えると、刑罰の制裁をもつてする公務員の政治活動の自由の制限が憲法上是認されるのは、禁止される政治的行為が、単に行政の中立性保持の目的のために設けられた公務員関係上の義務に違反するというだけでは足りず、公務員の職務活動そのものをわい曲する顕著な危険を生じさせる場合、公務員制度の維持、運営そのものを積極的に阻害し、内部的手段のみでこれを防止し難い場合、民主的政治過程そのものを不当にゆがめるような性質のものである場合等、それ自体において直接、国家的又は社会的利益に重大な侵害をもたらし、又はもたらす危険があり、刑罰による禁圧が要請される場合に限られなければならない。

更に、個人の政治活動の自由が憲法上極めて重大な権利であることにかんがみるときは、一般統治権に基づく刑罰の制裁をもつてするその制限は、これによつて影響を受ける政治的自由の利益に明らかに優越する重大な国家的、社会的利益を守るために真にやむをえない場合で、かつ、その内容が真に必要やむをえない最小限の範囲にとどまるかぎりにおいてのみ、憲法上容認されるものというべきである。すなわち、単に国家的、社会的利益を守る必要性があるとか、当該行為に右の利益侵害の観念的な可能性ないしは抽象的な危険性があるとか、右利益を守るための万全の措置として刑罰を伴う強力な禁止措置が要請される等の理由だけでは、かかる形における自由の制限を合憲とすることはできない。けだし、一般に政治活動、なかんずく反政府的傾向をもつ政治活動は政治権力者からみれば、ややもすると国家的、社会的利益の侵害をもたらすものと受けとられがちであるが、このような危険や可能性を観念的ないし抽象的にとらえるかぎり、その存在を肯定することは比較的容易であり、したがつて、政治活動の自由の制限に対して前述のような厳格な基準ないし原理によつて臨むのでなければ、国民の政治的自由は時の権力によつて右の名目の下に容易に抑圧され、憲法の基本的原理である自由民主主義はそのよつて立つ基礎を失うに至るおそれがあるからである。我々は、過去の歴史において、為政者の過度の配慮と警戒による自由の制限がもたらした幾多の弊害を度外視してはならないのである。このことは、公務員の政治活動についても同様であるといわなければならない。

(3) 規則六項一三号の違憲性(憲法一五条一項、一六条、二一条、三一条)。

以上の基準に照らすときは、例えば、本件において問題とされている規則六項一三号による文書の発行、配布、著作等は、政治活動の中でも最も基礎的かつ中核的な政治的意見の表明それ自体であり、これを意見表明の側面と行動の側面とに区別することはできず、その禁止は、政治的意見の表明それ自体に対する制約であるのみならず、これを政治的目的についての同規則五項、特に同項三号ないし六号の広範かつ著しく抽象的な定義と併せ読むときは、右の意見表明に所定の形態で関与する行為につき、その者の職種、地位、その所属する行政主体の業務の性質等、その具体的な関与の目的、関与の内容及び態様のいかん並びに前後の事情等に照らし、その行為が行政の政治的中立性の保持等の国家的、社会的利益に対していかなる現実的、直接的な侵害を加え、ないしはいかなる程度においてその危険を生じさせるかを一切問うことなく、単に行為者が公務員たる身分を有するというだけの理由で、包括的、一般的な禁止を施しているものであり、公務員に対し、実際上あまねく国の政策に関する批判や提言等の政治上の意見表明の機会を封ずるに近く、公務員関係上の義務の設定として合理的規制ということができるかどうかは別論として、少なくとも刑罰を伴う禁止規定としては、公務員の政治的言論の自由に対する過度に広範な制限として、それ自体憲法に違反するとされてもやむをえないといわなければならない。

右に述べたように、ひとしく公務員の政治的行為の禁止であつても、公務員関係上の義務として定める場合と刑罰の対象となる行為として定める場合とでは、その意義、性質、効果を異にし、憲法上それが許される範囲にも相違が生ずることをまぬかれえないのであり、これらの点を全く無視し、専ら行為の禁止の点のみを抽象してそれが憲法に適合する制限かどうかを判断すべきものとし、禁止違反に対して懲戒が課せられるか刑罰が科せられるかは、単なる強制手段の問題として立法政策上の当否の対象となるにすぎないとすることはできないのである。

(二) 国公法一〇二条一項の委任。

(1) 公務員関係の規律の対象となる政治的行為の規定の委任(憲法七三条四号、地方公務員法三六条、二九条)。

以上の次第であるから、法律が直接公務員の政治的行為の禁止を具体的に定めるには、公務員関係内における規律として定める場合と刑罰の構成要件として定める場合とを区別し、前述したような別個の観点、考慮に従つてその具体的内容を定めるべきであり、現実に定められた禁止内容に対しても、それが憲法に違反しないかどうかは別個の基準によつて判断すべきものであるが、国公法一〇二条は、上述のように、禁止行為の内容及び範囲を直接定めないでこれを人事院規則に委任しており、そのためにかかる委任の適否について問題が生ずることは、さきに指摘したとおりである。そこでこの点について順次考察するのに、まず一般論として、国会が、法律自体の中で、特定の事項に限定してこれに関する具体的な内容の規定を他の国家機関に委任することは、その合理的必要性があり、かつ、右の具体的な定めがほしいままにされることのないように当該機関を指導又は制約すべき目標、基準、考慮すべき要素等を指示してするものであるかぎり、必ずしも憲法に違反するものということはできず、また、右の指示も、委任を定める規定自体の中でこれを明示する必要はなく、当該法律の他の規定や法律全体を通じて合理的に導き出されるものであつてもよいと解される。この見地に立つて国公法一〇二条一項の規定をみると、同条項の委任には、選挙権の行使の除外を除き、いわゆる政治的行為のうち、禁止しうるものとしえないものとを区分する基準につきなんら指示するところはないけれども、国公法の他の規定を通覧するときは、右の禁止が国公法の採用した成績制公務員制度の趣旨、目的、特に行政の中立性の保持の目的を達するためのものであることが明らかであり、他方、一般に法律が特定の目的を達するための具体的措置の決定を他の機関に委任した場合には、特にその旨を明示しなくても、右目的を達するために必要かつ相当と合理的に認められる措置を定めるべきことを委任したものと解すべきものであるから、前記法条における禁止行為の特定についての委任も、行政の中立性又はこれに対する信頼を害し、若しくは害するおそれがある公務員の政治的行為で、このような中立性又はその信頼の保持の目的のために禁止することが必要かつ相当と合理的に認められるものを具体的に特定することを人事院規則に委ねたものと解することができる。また、公務員の多種多様性、政治活動の広範性とその態様及び内容の多様性、これに伴う禁止の必要の程度の複雑性と多様性、更に社会的、政治的情勢の変化によるこれらの要素の変動の可能性等にかんがみるときは、具体的禁止行為の範囲及び内容の特定を他のしかるべき国家機関に委任することに合理性が認められるのみならず、人事院が内閣から相当程度の独立性を有し、政治的中立性を保障された国家機関で、このような立場において公務員関係全般にわたり法律の公正な実施運用にあたる職責を有するものであることに照らすときは、右の程度の抽象的基準のもとで広範かつ概括的な立法の委任をしても、その濫用の危険は少なく、むしろ現実に即した適正妥当な規則の制定とその弾力的運用を期待することができると考えられる。そして、前述のように、公務員関係の規律としては、行政の中立性の保持のために必要かつ相当であると合理的に認められる範囲において公務員の政治活動の自由に制約を加えることが是認されるのであるから、以上の諸点をあわせて考えると、右の関係における公務員の政治的行為禁止の具体的な規定を規則に委任することは、その委任に基づいて制定された規則の個々の規定内容が、あるいは憲法に違反し、あるいは委任の範囲をこえるものとして一部無効となるかどうかは別として、委任自体を憲法に違反する無効のものとするにはあたらないというべきである(地方公務員法三六条、二九条参照)。

(2) 刑罰権の対象となる政治的行為の規定の委任(憲法四一条、一五条一項、一六条、二一条、三一条)。

しかしながら、違反に対し刑罰が科せられる場合における禁止行為の規定に関しては、公務員関係の規律の場合におけると同一の基準による委任を適法とすることはできない。けだし、前者の場合には、後者の場合と、禁止の目的、根拠、性質及び効果を異にし、合憲的に禁止しうる範囲も異なること前記のとおりであつて、その具体的内容の特定を委任するにあたつては、おのずから別個の、より厳格な基準ないしは考慮要素に従つて、これを定めるべきことを指示すべきものだからである。

しかるに、国公法一〇二条一項の規定が、公務員関係上の義務ないしは負担としての禁止と罰則の対象となる禁止とを区別することなく、一律一体として人事院規則に委任し、罰則の対象となる禁止行為の内容についてその基準として特段のものを示していないことは、先に述べたとおりであり、また、同法の他の規定を通覧し、可能なかぎりにおける合理的解釈を施しても、右のような格別の基準の指示があると認めるに足りるものを見出すことができない。これは、同法が、両者のいずれの場合についても全く同一の基準、同一の考慮に基づいて禁止行為の範囲及び内容を定めることができるとする誤つた見解によつたものか、又は憲法上前記のような区別が存することに思いを致さなかつたためであるとしか考えられない。それゆえ、国公法一〇二条一項における前記のごとき無差別一体的な立法の委任は、少なくとも、刑罰の対象となる禁止行為の規定の委任に関するかぎり、憲法四一条、一五条一項、一六条、二一条及び三一条に違反し無効であると断ぜざるをえないのである。

第三結論。

以上説述したとおり、国公法一〇二条一項による政治的行為の禁止に関する人事院規則への委任は、同法一一〇条一項一九号による処罰の対象となる禁止規定の定めに関するかぎり無効であるから、これに基づいて制定された規則もこの関係においては無効であり、したがつて、これに違反したことの故をもつて前記罰条により処罰することはできない。したがつて、これに反する従来の最高裁判所の判決は変更すべきものである。それゆえ、本件被告人の行為に適用されるかぎりにおいて規則六項一三号の規定を無効として、被告人を無罪とした原判決は、結論において正当であるから、結局、本件上告は理由がなく、棄却すべきものである。

検察官横井大三、同辻辰三郎、同石井春水、同佐藤忠雄、同外村隆公判出席

(村上朝一 関根小郷 藤林益三 岡原昌男 小川信雄 下田武三 岸盛一 天野武一 坂本吉勝 岸上康夫 江里口清雄 大塚喜一郎 高辻正己 吉田豊)(大隅健一郎は、退官のため署名押印することができない)

検察官の上告趣意

目次

一、序説

二、確定された事実

三、原判決の要旨

四、上告趣意

(一) 憲法違反

(二) 判例違反

一、序説

本件は、北海道の北端稚内に近い一寒村猿払村に起つた事件である。猿払村は、面積こそかなり広いが、その大部分は山林原野で、人口は五千余、それも年々減少の傾向を示す、いわゆる過疎地帯である。本件の内容は、そこにある一郵便局の局員が行つた選挙用ポスターの掲示や配布で、国家公務員法一〇二条、一一〇条一項一九号、人事院規則一四―七、六項一三号に該当するとされたものである。これを、第一審判決は、憲法論の観点から無罪とし、原判決もこの無罪判決を支持した。そして、その憲法論は特異なものであり、しかもこの種事件は全国各地に数多く見られ、これらに対する本件判決の影響も考えられるので(現に徳島地裁昭和四四年三月二七日の塀本信之に対する判決には本件第一審判決の明瞭な影響が見られる。)、原判決および第一審判決のとる憲法論の誤りを指摘し、かつ、従来の判例との矛盾を論じ、最高裁判所の正当なる裁判を求めるため上告に及んだ次第である。

二、確定された事実

本件第一審判決は、具体的な事実関係を確定し、その上に立つて憲法論を展開し、原判決もこれを支持しているので、憲法論の当否に関する見解を述べる前に第一、二審を通じ確定された事実関係を明らかにしておくこととしたい。

(一) 被告人は、北海道宗谷郡猿払村字鬼志別所在、鬼志別郵便局に勤務する非管理職の国家公務員で、同時に猿払地区労働組合協議会事務局長であること。

(二) 被告人は、現業公務員であること。ただし、その意味は、被告人が国家行政組織法二一条にいわゆる現業の行政機関に勤務する職員であるという意味と、公共企業体等労働関係法の適用を受けるいわゆる五現業の一つである郵便関係業務に従事する公務員という意味においてであつて、本件第一審判決の引用する、いわゆるミッチェル判決がその対象とした造幣局の圧延工というような現業公務員ではない。

(三) 被告人は、昭和四二年一月八日告示の第三一回衆議院議員選挙に際し、猿払地区労協の決定に従い、日本社会党の公認候補である芳賀貢の選挙用ポスター六枚を鬼志別地内の六箇所の公営掲示場に掲示したほか、同じ芳賀貢の選挙用ポスター約八〇枚を猿払村字浅茅野に住み浅茅野郵便局に勤務する牧野邦昭に掲示を依頼して郵送配布し、同じ芳賀候補のポスター八枚と同党公認の安井吉典候補の選挙用ポスター八枚を、同村字知来別に住み、知来別郵便局に勤務する白取兢に掲示を依頼して郵送配布し、同じ芳賀候補のポスター八枚を同村字小石地区集配担当の鬼志別郵便局員山川健二に掲示を依頼して配布し、更に、右安井候補のポスターを北海道電力株式会社鬼志別電業所の職員立野政男に分配掲示方を依頼して配布したこと。

これは、本件公訴犯罪事実のすべてであつて、この事実ははじめから被告人の認めて争わないところである。

(四) 右の被告人の掲示または配布行為は、何れも勤務時間外に行われたこと。ただし、右のうち、山川健二に配布した分は、記録によると、同人が正規の郵便物配達の途次掲示したのであり(記録八一丁八二丁)、被告人もそれを前提として配布したとしか考えられないから、被告人自身の配布行為は勤務時間外であつたとしても、被告人の依頼内容は勤務時間中の掲示行為ということになる。そこに多少問題はあるが、いまここでは、これ以上、この点に触れないこととする。

(五) 被告人の本件所為は、いずれも、国の施設を利用することなく、かつ、職務を利用し若しくはその公正を害する意図なしに行われたこと。

しかし、この点には問題がある。

第一に、鬼志別郵便局の小石地区集配担当の山川健二に対する配布行為は、被告人がポスター八枚をまるめて、郵便物区分台の上に置き、「小石の配達さんお願いします。一番に貼つて下さい」という伝言を添えておいたのを、山川健二がこれを取り上げ前述のごとく集配の途次掲示したというのであるから、政治的目的のために国の施設を利用しまたは職権を利用したという見方もできないことはない。そこで検察官は、それを否定する第一審判決に対する控訴においてこの点を事実誤認として争つたのであるが、原判決は、第一審判決のいう国の施設を利用したものでもなく、職権を利用したものでもないというのは、人事院規則一四―七、六項一号または一二号の予想するような事実はないという意味であつて、その意味では第一審判決の右の判示は誤つていないとした。

しかし、この原判決の判示は、少し焦点が違つているようである。検察官の起訴は、被告人の所為を人事院規則一四―七、六項一三号違反とするものである。第一審判決は、同項一号二号一二号等に言及してはいるが、それは、合憲的に規制することの可能な場合の例としてであつて、本件における被告人の所為がそれら各号に該当するかどうかを検討しているのではなく、被告人の所為を人事院規則一四―七、六項一三号に違反するものとして合憲的に処罰しえない理由の一つとして、被告人は国の施設を利用したのでもなく、職権を利用したのでもないことを挙げているのであるから、原判決もその角度から被告人の山川健二に対する所為が国の施設の利用に当るかどうか、職権の利用に当るかどうかを考えるべきであつたのである。そうすれば、郵便局内の郵便物区分台を利用し同僚の集配担当者に集配の途次のポスター掲示を依頼することは、国の施設と職務関係を利用したものであるということも可能であろう。しかし、これは、純粋な事実認定の問題ではなく、被告人の所為を人事院規則一四―七、六項一三号に違反するものとして処罰する場合、国の施設の利用とか職務職権の利用が必要な条件になるかどうか、仮になるとして右の如き被告人の山川健二に対する依頼関係がそれに該当するかどうかの法律判断の問題とも考えられるので、ここでは、被告人が山川健二に対して右のような依頼をしてポスターを配布したという事実のみを確定された事実と考えることとしたい。

同じようなことは、第一審判決が、被告人の本件所為をもつて職務の公正を害する意図なしに行つたものとした点についてもいえるのであつて、検察官は、この点をとらえて、被告人は、国家公務員として関与してはいけない政治的行為であることを知りながら本件所為にでたものであるから、第一審判決の右のような判示は事実誤認であると主張したのであるが、原判決は、第一審判決が、右のように判示したのは、被告人の本件所為が人事院規則一四―七、六項二号のような不公正な企図をはらんだ類の行為でないことを説明したものにとどまるとして検察官の右の主張を排斥しているのである。しかし、これも焦点をはずれた説示であつて、第一審判決が被告人に職務の公正を害する意図がなかつたとしたのは、被告人の本件所為を人事院規則一四―七、六項一三号違反として処罰することができない理由の一つとして述べたのであつて、決して同規則六項二号そのものに該当する事実があつたかどうかについて述べたのではないのである。

しかし、被告人に職務の公正を害する意図があつたかどうかということは、被告人の本件所為を人事院規則一四―七、六項一三号違反として処罰することができるかどうかということとは直接の関係がないものと思われるので、ここではこれ以上この点についても論じないこととする。

もつとも、原判決も認めるとおり、被告人が国家公務員法によつて禁止されていることを認識しながら本件所為に出たものであることは、確定された事実である。

(六) 被告人の職務は、鬼志別郵便局において郵便貯金、簡易保険等に関し、外務員が集金した現金およびこれに関する書類等を検査し、右現金を出納官吏に払い込むとともに窓口担当者に引継する内勤事務、電話交換事務等で、その内容は内規により規制されていて全く裁量の余地がなく、機械的労務の提供にとどまるものであつたこと。

しかし、このうち被告人の職務内容が全く裁量の余地のないものであつたという点は問題である。執務に関する細かい規程が、どんなに整備されていても、その手続の過程の各所に執務者の判断の介入する余地はあるのであつて、裁量の余地の有無ということが執務者の判断の介入する余地の有無ということと等質のものであるならば、すべての裁量の余地の有無は結局程度問題に帰するともいえるのである。

(七) 被告人の本件所為は、労働組合活動の一環として行われたものであること。これには争いはない。

三、原判決の要旨

原判決は、二に掲げた事実関係を前提とし、被告人を無罪とした第一審判決に対する検察官の控訴を棄却して、第一審の見解を支持した。

検察官が第一審判決に事実誤認があるとして争つた三つの点、すなわち、被告人の職務内容が裁量権の全くない機械的労務であつたという点、被告人の本件所為が国の施設を利用したり、職務を利用したものでないという点および被告人の本件所為が職務の公正を害する意図なく行われたものであるとする点についての原判決の見解並びにこれについての疑問は、すでに二において述べたとおりなので、ここでは、第一審判決の憲法解釈の誤りを指摘する検察官の論旨に対する原判決の見解を見ることとする。

原判決は、

第一に、国家公務員法一〇二条が一般職の国家公務員(被告人が国家行政組織法二一条にいわゆる現業の行政機関につとめ、公共企業体等労働関係法にいわゆる五現業の一を担当する者であることは争いないが、それと同時に一般職の国家公務員であることも疑いはない。)につき政治活動を制限する理由が憲法一五条にいう国民全体の奉仕者で一部の奉仕者でないことに由来すること、すなわち公務員の政治的中立性の確保にあるとする検察官の主張を承認しつつ、

第二に、検察官が判例違反の対照判例例として指摘する、昭和三三年三月一二日、同年四月一六日の各大法廷判決(刑集一二巻三号五〇一頁、同六号九四二頁)および同年五月一日の第一小法廷判決(刑集一二巻七号一二七二頁)はいずれも第一審判決の説示したとおり憲法一四条との関係における判断をしたにとどまり(このうち最後の判決は憲法一四条のものではなく、本件第一審判決もこれを憲法一四条に関するものとはしていないので、この点に関する原判決の右説示は正確を欠く。)、憲法二一条との関係で本件のような具体的事案において合憲的に刑罰を科しうるかどうかの点についてまで判断したものではないとしてしりぞけ、

第三に、右第一に掲げたような立法理由に基づき一方における公務員の政治的中立の要請と他方における民主社会の市民の積極的参政の理念との具体的調和点を今日のわが国の現実的諸条件をふまえて何処に求めるか、換言すれば、公務員の職種ないし階層の如何により、政治活動の如何なる態様のものについてどれほどの範囲にわたり、如何なる程度、種類の制裁を予定して制約を科するかは、まずもつて立法府の合理的裁量の領域に属するものとし、立法府がこの問題についての第一次責任機関であることを認め、その理由として、立法府が国民の意思に基づき右の調和点として坪量選択したところが、法として制定せられた以上、よしんば、およそ立法に時として免れ難い不合理や不均衡ないし誤謬逸脱の廉があつても、それが顕著の故に違憲であること明白と断じえない限り、一般的にはできる限り司法審査の介入はこれを差し控え、ひとえに国民の多数意思を反映する政治過程自体の裡において是正修復されるべきものとする民主政の基本的機能に期待するのが、まさに三権分立の建前と民主政の仕組に鑑みて司法審査の原則といわなければならないからであるとした。

この部分は、第一審判決が国家公務員法一〇二条、一一〇条およびこれに基づく人事院規則の制定事情やその後のこれに関する国会および政府の取扱の異常性に言及し、恰もそれがこれらの規定を本件に適用することを拒否すべき理由の一つとしているかのごとき判示をしているのを、抽象的にではあるが、批判しているものと解せられないことはない。

第四に、原判決は、右の如く立法府の権限を尊重し、その権限の行使が明白に違憲と断じえない限り、裁判所はこれに介入すべきではないとし、第一審判決が、これと同趣旨に出た昭和四〇年七月一四日の大法廷判決(民集一九巻五号一一九八頁)を引用しながら、一転して、この大法廷判決は、憲法上はじめて認められた労働基本権に関するもので、言論の自由ないし政治活動の自由に関するものでないとして、本件に関するその判例性を否定し、これに代り「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」という基準によるべきであるとしたものとし、その理由を、およそ民主政はその自らの政治過程のうちに柔軟な復元機能をうしなうことなく保持する限りにおいて生存しうるという意味において、言論の自由ないし政治活動の自由こそがまさに民主政の中核としてその死命を制する根本原理というべきであるから、いかなる理由原因によるにせよひとたび右の自由が制約されるにおいてはそれだけ右の復元機能は柔軟性をうしない、民主主義政治過程に本質的な是正修復の方途をうしない、はては麻痺硬塞という事態を招来することもありうるという重要性の故に、言論の自由ないし政治活動の自由をめぐる司法審査について立法府の広汎な裁量を前提とする合理性の基準は必ずしも適切でないとの配慮に基づくと理解されるのであるとしている。

この部分は原判決の判示中最も重要な部分で、一方において言論の自由ないし政治活動の自由を他の基本的人権と異なる民主政の基本原理とし、他方においてその制限の基準は「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」という原理であるとするのである。

第一審判決の論理がこのようなものであつたかどうかには若干の疑問があるが、原判決は一応第一審判決をこのように解したものとし、後にこの論理を第一審判決の論理とともにあらためて検討することとする。

第五に、原判決は、第一審判決が右に掲げたような思考方法に立脚して、国家公務員法一〇二条、人事院規則一四―七、同法一一〇条一項一九号をめぐる具体的詳細な立法事実(この立法事実という言葉がいかなる意味に用いられているのか明確でないが、第一審判決が具体的詳細に検討しているのは、いわゆる立法事情、立法趣旨、外国法をふくむ立法例およびその運用の状況等であるから、そのすべてを指すものと考えられる。)を検討したうえ、被告人の本件所為のごときまで三年以下の懲役又は一〇万円以下の罰金という刑事罰を加えることを予定することは必要最小限の域を超えるものと評価し、国家公務員法一一〇条一項一九号が本件所為に適用される限度において憲法二一条および三一条に違反するから適用することができないと判断したのは相当であるとしたのである。

つまり、第一審判決が本件被告人の所為に国家公務員法一〇二条人事院規則一四―七、六項一三号を適用し、同法一一〇条一項一九号の刑罰をもつて臨むのは、前述の「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」があるのに、それによつていないこととなるというのであろう。もつとも、後に触れるように規制すること自体と規制違反に対する制裁の程度の何れに重点を置いて右基準を適用しているのか、そういう区別なしに漠然と右基準を適用したのかはつきりしないばかりでなく、何れにしても本件の場合他の選びうる手段が何であるかも全く示されていないのである。

四、上告の趣意

三に述べたような原判決の判断は、憲法の解釈適用を誤つたものであり、併せて、従来の判例または判例の趣旨に反するもので、原判決およびその前提となつた第一審判決は破棄を免れないものと考える。

(一) 憲法違反

(1) 言論の自由ないし政治活動の自由と労働基本権との相違について

言論の自由ないし政治活動の自由はいわゆる自由権に属し、労働基本権はいわゆる社会権に属し、その間に性質を異にするものがあることは否定できないであろう。しかしながら、労働基本権が近時判例上重視されつつあることは周知のとおりであり(大法廷昭和四一年一〇月二六日判決――いわゆる全逓中郵事件判決――同昭和四四年四月二日判決――いわゆる都教組事件および仙台全司法事件判決――)、殊に、例えば全逓中郵事件の判決において最高裁は、労働基本権が生活権に由来するその本質に言及した後労働基本権の制限も国民生活に重大な障害をもたらすおそれを避けるため必要やむをえないものに限られるとし、さらにその制限違反に伴う法律効果、すなわち、違反者に対して課せられる不利益についても、必要な限度をこえないように、十分な配慮がなされなければならない、とくに、勤労者の争議行為等に対して刑事制裁を科することは、必要やむを得ない場合に限られるべきであるとしているのである。一方言論の自由にも公共の福祉からくる制約のあることは判例(大法廷昭和二五年九月二七日判決等)の認めるところである。従つて、原判決のごとく言論の自由ないし政治活動の自由についてのみ民主政におけるその重要性を強調し、それが多少でも制限されれば、すなわちこれを本件に即していえば一般職の国家公務員という限られた人々について、制限されても民主政が麻痺硬塞するが如く述べ、労働基本権の制限との間に著しい差異を置こうとする発想法には多大の疑問がある。両者はともにその性質に応じて尊重され、また性質に応じて制約を受けるというべきで、それを並列的に並べてその優劣を論ずるのは妥当を欠くと考える。

学者の研究するところによれば、アメリカにおける言論出版の自由とその制限に関する判例の動きには歴史的変遷があり、精神的自由と経済的自由とでは規制の原理に差異の存することが意識せられ、一時は精神的自由の規制は「明白にして現在の危険」がある場合に限られるとされ、その趣旨の多くの判例を生んだのであるが、一九四〇年後半以後判例に変化が見られ、精神的自由についても、いわゆる合理性の基準が適用せられ、立法機関の判断に比較的広い自由裁量の途を認めつつ、それを著しく遺脱した場合にのみ裁判所が介入する方向に向いつつあるという(伊藤正己、言論出版の自由参照)。第一審判決の引用するミッチェル判決(一九四六年)の多数意見はその方向を追うものである。従つて、原判決の支持する第一審判決が昭和四〇年七月一四日の最高裁大法廷判決を単にそれが労働基本権に関するものであるという理由で、本件への適用を拒否したことは納得し難い。

のみならず、原判決は、言論の自由と政治活動の自由とを同列に並べ一括して労働基本権との間に差異のあることを論じているが、一般の言論の自由とその中での政治活動の自由とはその性質に応じおのずから制約の許される範囲方法に差異があるものと見てよく、殊に政治活動の自由の中心となるべき選挙運動の自由については選挙運動の性質上かなり厳しい法律的制約があり、一部の規定についての合憲性に関する論議は盛んであつても、最高裁判例はいまだかつてその合憲性を否定していないのである。本件は選挙運動の自由、殊に選挙の公正への影響の強いものと考えられる一般職の国家公務員の選挙運動の自由が問題になつている事件である。原判決が単に言論の自由一般を論ずる態度で終始したのは誤りであつたと考える。

(2) 「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」ということについて

「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」という基準がアメリカの判例に現われていることは、学者の指摘するところである(芦部信喜、記録四三二丁以下)。しかし、この原則を表明したとされるアメリカの判例の事案を見るに、例えば、Shelton v. Tucker(364 U.S. 479)のごとく、州立小学校の教師に対し彼らが過去五年以内に所属しまたは定期的に寄附をしたすべての団体のリストを宣誓陳述書にして提出すべきことを一年の任期終了ごとに要求する州法を違憲とするものであり、Lovell v. Griffm(303 U.S. 444)Sch-neider v. State(308 U.S. 147)Talley v. California(362 U.S. 60)のごとく、一見必要以上にビラの配布を規制しようとする条例を違憲とするものであつて、言論の自由を規制する立法だからという理由で卒然として「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」という基準を持ち出しそれだけから結論を導き出しているものとは思われない。むしろ、規制自体から他により適当な規制手段がありそうであることが一見明白に推測できるような場合についていわれる基準のごとく思われる。従つて、右に掲げたアメリカの各判例においても、しからば如何なる「より制限的でない他の選びうる手段」があるのか必ずしも具体的に明示されていないが、それでも、およそ推測がつくというものである。

しかしながら、本件においては、かりに原判決のごとく「同じ目的を達成しうる、より制限的でない他の選びうる手段」という基準によるとしても、それが何であるか、判文上明示されていないばかりでなく、それを推測することも困難である。学者は、アメリカの州の一判例を挙げ、政治的活動の制約については、その制約が公務の向上に合理的に関連を持つていること、その制約によつて公衆の受ける利益が制約に起因する憲法上の権利の損傷よりも重要であることのほか、制約する側において、憲法上の権利をより侵害しない他の選びうる手段が利用できないことを証明しなければならないとされているとするのであるが(芦部信喜、判例評論一一四号一二頁以下参照)、かりにそうであつても、アメリカのこの判例も前述の各判例と同様、一見規制が広汎に過ぎる事案に関するものであつて、本件事案とはその内容を異にする。従つてアメリカの判例の事案では他の選びうる手段の利用ができないことの証明を規制する側に要求することが可能であるとしても、本件の場合は規制が一見広汎に過ぎるとはいえない場合であるから、他の規制方法または他の制裁方法では立法目的を達成することができないことを証明しようとしても、恐らくそれは困難であろう。すなわち、本件の場合は、いわゆる現業官庁に勤務する国家公務員ではあるが、一般職に属するものが、最も重要な、最も典型的な選挙において特定の候補者を支持するポスターを掲示配布することの規制または規制違反に対する制裁が問題なのであつて、しかも郵便業務の性質、その組織の全国的であること等を考えれば、これを規制しその規制違反に刑罰を科しうるとすることも十分合理性のあることと考えられるからである。従つてもし裁判所が選びうるより制限的でない手段があるという理由で法律の定める規制の方法、程度を違憲と判断するならば、少なくともどのような方法、程度をもつて最小限度とするかの基準くらいは示さなければならないものと考える。それをしないで、アメリカの判例に現われた抽象的な表現である「より制限的でない選びうる手段」という原則のみを移入して本件に適用し、一般職国家公務員の政治行為を規制すること自体の合理性は否定せず、単により制限的でない他の選びうる手段があるという理由で、国家公務員法一〇二条、人事院規則一四―七、六項一三号を本件に適用することは違憲であるとした原判決の見解には納得できないものがある。

のみならず、この「より制限的でない他の選びうる手段」という原則とミッチェル判決の多数意見や昭和四〇年七月一四日の最高裁大法廷判決のとる見解、すなわち、いわゆる合理性基準説との間にあたかも二律背反的関係があるがごとく説く、原判決の判示にも賛成し難い。かりに、自由権的基本的人権の制約の合憲性の判断に当つては「より制限的でない他の選びうる手段」という基準が適用されるにしても、立法機関自身も同じ基準の適用を考えつつ立法したものと考えることは可能であつて、その場合立法機関の判断に優越的地位を与えるべきことはその性質上当然であるから、裁判所が、立法機関が如何なる配慮をしたかに関係なく、いきなり本件について「より制限的でない他の選びうる手段」がないとはいえないという判断をすることは、原判決自身がその憲法判断の前提として、公務員の政治的中立の要請と民主社会の市民の積極的参政の理念との調和を今日のわが国の現実的諸条件をふまえて何処に求めるかはまずもつて立法府の合理的裁量の領域に属するとした考え方と矛盾するものと思う。原判決は、第一審判決が立法機関の合理的裁量を尊重すべきことを説きながら、一転して、言論の自由ないし政治活動の自由に関しては、立法機関の裁量権尊重の原則をとらず「より制限的でない選びうる他の手段」という基準によつたとしているが、第一審判決の判示はその点必ずしも明確に割切つてはいないのであつて、昭和四〇年七月一四日の大法廷判決を労働基本権に関するもので、政治的自由の如き基本的人権に関するものでないとしながら、「当裁判所は、国家公務員につき国民の基本的人権の一つである政治活動をどの程度制約できるかにつき……先に引用した米連邦最高裁判所判決(いわゆるミッチェル判決)における多数意見の判示と同様、制約できる程度の判断権は、一次的には国会および国会の委任を受けて規則を制定した人事院にある」と解するとし、その判断が「社会一般に存在している観念をとび超えた場合」にのみ、その判断の合理性を否定しうるとしているのである。これは、第一審判決が、国家公務員法一〇二条、一一〇条、人事院規則一四―七、六項一三号を本件被告人の所為に適用して処罰することを拒否しているのは、判文上明示されてはいないが、社会一般に存在している観念をとび超えるものとしたことを意味するものとも考えられる。そうすれば、「とび超える」という言葉が示すとおり、第一審判決は、かりに「より制限的でない選びうる他の手段」という基準によつたとしても、その判断権は一応立法機関にあるものとしているのであつて、原判決の如く、いきなり立法機関の裁量権を否定するか、これを過少評価し、裁判所が自ら優越した地位において判断を下すべきものとしているのではないと思われる。

このように見れば、第一審判決の当否は別に論ずるとして、原判決は、第一審判決の憲法解釈の方法を誤解したうえ、明白な憲法解釈の誤りを犯したものといわなければならない。

(3) 「被告人の本件所為の如きにまで三年以下の懲役又は一〇万円以下の罰金という刑事罰を加えることを予定することは必要最小限度の域を超える」とする点について

原判決がこの刑罰の点を前述の「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」という基準とどういう関係があると考えたのか必ずしもはつきりしない。なぜならば、言論の自由の規制問題につき右にいう「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」という基準を適用する場合、二つの異つた面があることに留意する必要がある。その一つは言論の自由を規制する方法の面で、他の一つは規制違反に対する制裁の面である。前者について右基準を適用すると、例えば前掲のShelton v. Tucker事例ではそのような広汎な宣誓陳述書の提出を求めなくても同じ目的を達成できる、より制限的でない方法があるのではないかということになり、また前掲のLovell v. Griffm事件その他のビラの配布の規制の当否が問題となつた事件でもビラの配布自体をそれ程広く規制しないでも他にもつとおだやかな方法で同じ目的を達成できるのではないかということになる。これに反し後者について右基準を適用すると結局法定刑の軽重を問題とすることになるのである。もつとも、懲戒罰で足りるか刑事罰まで必要とするかという問題は、本質的には後者に属しながら多少前者的面を持つ中間的な性質を有しているし、前者と後者とは理論上截然と区別されるようで、実際面では相関関係を持つであろう。しかし原判決のいう「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」という右の基準は、本来前者の面に適用されるもので、後者に適用される基準はどう考えても規制違反に対する違法性評価の合理性の有無ということ以上に出ないものである。

そうすると、原判決が、第一審判決のとる基準をいわゆる合理性の基準ではなく、「同じ目的を達成できる、より制限的でない手段」という基準であると理解して是認したうえ、卒然として法定刑の重い点を持ち出し「被告人の本件所為の如きにまで三年以下の懲役又は一〇万円以下の罰金という刑事罰を加えることを予定することは必要最小限の域を超えるもの」とした真意は捕捉し難いといえよう。もし法定刑の重い点を問題とするのであれば、その法定刑の予定するすべての構成要件との関係およびその構成要件に該当する行為に出るべき者の予想される犯情とそれらに対する法定刑とのバランスを問題とすべきで、被告人の本件所為と法定刑の最高を比べて必要最小限度の域を超えるというが如きは誠に首肯し難い所論といわねばならない。

もしかりに原判決のいわんとするところが法定刑の重いことではなく刑事罰を科すること自体の重いことであるとしても、刑事罰と懲戒罰の軽重は必ずしも一義的にはきめられないのであつて、刑事罰の最低が常に必ず懲戒罰の最高を越えることは明らかであるとはいえないであろう。

従つて、原判決が「被告人の本件所為の如きにまで三年以下の懲役又は一〇円以下の罰金という刑事罰を加えることを予定することは必要最小限の域を超えるものと評価し、国家公務員法第一一〇条第一項第一九号が本件所為に適用される限度において」違憲であるとしたのは納得し難いのである。

(4) 第一審判決の行つた具体的詳細な立法事実の検討及びこれに基づく憲法論について

原判決は、右の如く、被告人の本件のような所為にまで三年以下の懲役等という刑事罰を加えることを予定することは必要最小限度の域を超えるものと評価するにあたり、第一審判決が具体的詳細な立法事実を検討したことに言及しているので、この点につき一言し、併せて第一審判決の憲法論につき所見を述べておきたい。

第一審判決は、この関係について、(一)まず国家公務員法一〇二条、一一〇条、人事院規則一四―七の制定改正の事情を述べ、わが国の自主的立法としての性格の弱いことを指摘し、(二)次いで、国家公務員法一〇二条、人事院規則一四―七がアメリカのいわゆるハッチ法および人事委員会の規定を参酌したものであることを述べ、(三)ハッチ法は連邦公務員の政治活動を禁止しているがそれに対する制裁は罷免にとどまり刑事罰の定めがないことを述べ、(四)そのハッチ法違反の責任を問われた連邦造幣局圧延工の事件(いわゆるミッチェル事件)についての連邦最高裁判所の判決における多数意見と、それに近い発想方法をとる昭和四〇年七月一四日の最高裁大法廷判決の地方公務員法五二条と憲法二八条との関係に関する意見とを紹介した後、(五)この大法廷の見解は労働基本権に関するもので表現の自由に由来する国民の政治的活動をする自由といつた基本的人権の制約に関するものでないとしながら、(六)再転して、前述の如く、「当裁判所は、国家公務員につき国民の基本的人権の一つである政治活動をどの程度制約できるかにつき、先に引用した米連邦最高裁判所判決における多数意見の判示と同様、制約できる程度についての判断権は、一次的には国会及び国会の委任を受けて規則を制定した人事院にあると解するけれども、この公務員の政治活動の自由の制約については、その違反行為に課せられる制裁を含みその制約の程度が、社会一般に存在している観念をとび超えたものである場合には、その制約が合理的でないと判断する権能を有すると解する。この観念は、米連邦最高裁判所の多数意見がいう『慣行、歴史および年々変化する教育的、社会的、経済的状況を基礎として生まれるものである』のみならず、国民の政治活動の自由が基本的人権として認められている近代民主主義社会で先進国といわれている諸国における公務員に対する政治活動の制限についての基本的考え方をも基礎として思考すべきものと思料する」としている。このあたりの第一審判決の表現はかなり微妙であつて、原判決の判示の極めて直截的なのと異る。

第一審判決には右のように述べたあと、(七)アメリカのハッチ法は連邦法典に組み入れられたけれども、公務員の政治活動の制限違反には刑事罰の制裁がなく、制裁としての罷免についてもその程度が緩和されるに至つていること、イギリス、西ドイツでは多くの公務員の政治活動が自由となつており、ことに政治活動の自由であるべきいわゆる現業公務員の多いことでは日本はイギリスに近いこと、いわゆる五現業が三公社と同様労働関係について他の一般公務員と異る取扱を受けるに至つたこと、最高裁大法廷はいわゆる中郵事件の判決において、国家公務員も憲法二八条の勤労者であるから憲法一五条の全体の奉仕者であるという理由だけで労働基本権を否定することはできないとしたこと、I・L・O一〇五号条約についても、わが国としては批准する方向で検討する旨の国会での政府答弁があること、昭和三九年九月の臨時行政調査会の答申に単純労務的な職務に従事するものについては政治的行為の規制を最小限度にとどめるべきものとされていることなどに触れたうえ、(八)これらの事実を足がかりとして、「憲法二一条の保障する表現の自由に由来する政治活動を行う国民の権利は、立法その他国政の上で最大の尊重を必要とする国民の基本的人権の中でも最も重要な権利の一つであると解されるが、右の自由も絶対無制限のものでないばかりでなく、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者でない国家公務員の身分を取得することにより、ある程度の制約を受けざるを得ないことは論をまたないところであるが、政治活動を行う国民の権利の民主主義社会における重要性を考えれば、国家公務員の政治活動の制約の程度は必要最小限度のものでなければならない」とし、(九)その必要最小限度かどうかを考える過程において、公務員の職種、地位、行為の場所的時間的関係などを挙げ、人事院規則一四―七、六項一号、二号、一二号に該当する行為とか、勤務時間中の政治的行為を禁止しても、憲法違反にならないとし、さらに本件において問題とされている同規則六項一三号に掲げられているような行為を行政過程に関与する公務員が行う場合は禁止されてよく、そのため同号が置かれることは認めるとしながら、「行政過程に全く関与せず、かつその業務内容が細目迄具体的に定められているため機械的労務を提供するにすぎない現業公務員が、勤務時間外に国の施設を利用することなく、かつ、職務を利用し若しくはその公正を害する意図なしに行つた場合、その弊害は著しく小さい」ので、(一〇)この種の行為に刑事罰を科している国はなく、人事院規則一四―七の母法とも見られるアメリカの法令でも懲戒罰ですませていることは、通例の場合それで十分法目的を達成することができることを示すものである。(一一)従つて、懲戒罰に加えて三年以下の懲役又は一〇万円以下の罰金という刑罰を法定する国家公務員法の規定は、刑法一九三条、一九七条、国家公務員法一〇九条八号、一二号等に比し、更に罰則の定めのない地方公務員法の建前に比し、「決して軽いものではない」、(一二)そういう理由から「国の政策決定に関与する高級公務員等が勤務時間中に組織的に反政府的政治活動を行い、これが国の行政の能率的運営に重大な影響を及ぼすことがある場合を考えれば、右政治活動に対し(国家公務員法)八二条の懲戒処分の制裁に止まらず一一〇条の刑事罰を科することも合理的と考えられる場合もないのではないのであるが……非管理職である現業公務員でその職務内容が機械的労務の提供に止まるものが勤務時間外に国の施設を利用することなく、かつ職務を利用し、若しくは、その公正を害する意図なしで人事院規則一四―七、六項一三号の行為を行う場合、その弊害は著しく小さいものと考えられる」ので、「このような行為自身を規制できるかどうか、或いは、その規制違反に対し懲戒処分の制裁を課し得るかどうかはともかくとして」、前述のように懲戒処分のほか「三年以下の懲役又は一〇万円以下の罰金という刑事罰」を加えることができる旨を法定することは「行為に対する制裁として相当性を欠き、合理的にして必要最小限度の域を超えている」とし、(一三)更に、本件被告人の所為が被告人の属する全逓労組活動の一環としてなされたものであることを把え、労組の選挙運動はその目的の範囲内であれば公職選挙法にふれない限り禁止されていないので、組合の決定に基づきその組合員で公共企業体等労働関係法の適用を受ける職員がする行為につき、国家公務員法一一〇条一項一九号の刑罰を科することは五現業に属する非管理職である職員に対する労働関係の規制を、国家公務員法から公共企業体等労働関係法に移し労働関係についての制約を緩和した趣旨に沿わないとし、(一四)結局、国家公務員法一一〇条一項一九号は、本件のような被告人の行為に適用される限度において、行為に対する制裁としては、合理的にして必要最小限度の域を超えたものと断ぜざるを得ないとしたものである。

以上が第一審判決の憲法論であつて、その中には確かに原判決のいうとおり立法事実ないし立法事情、立法例等に関する詳細な検討がふくまれているが、その全体を通読して見ると、その無罪判決に至る法律論の構造は、必ずしも一義的でないのであつて、一面いわゆるミッチェル判決の多数意見に従い立法機関の判断権を尊重し、その判断が社会一般の観念を著しく飛び超えた場合にのみ裁判所の介入を認めるべきものとしながら、他面、被告人の本件所為の如きにまで国家公務員法一〇二条、一一〇条一項一九号、人事院規則一四―七、六項一三号を適用して処罰することは、一般職公務員の政治的中立性を保持するためには、必要最小限度を超え憲法二一条、三一条に違反するものとしているのであつて、そこには両者の関連性についての説明、いいかえれば前半の「一般の観念を著しく飛び超える」ということと後半の「必要最小限度を超える」ということとの関係の説明がないように思われるのである。もつとも、第一審判決が右の前半部分にかなりの重点を置いていることを考えれば、後半の意味は「一般の観念上必要最小限度と考える基準を著しく飛び超える」という意味にとれるのであるが、そうであるとすると、第一審判決は一方においてそのような立法機関の裁量権を尊重するとしながら、何時の間にかその裁量権を裁判所自ら代つて行使したこととなつているきらいがある。そこに第一審判決の論理に微妙なものがあるともいえるが、理論とその具体的事件への適用との間にギャップがあるともいえるのである。そこで原判決は前述の如く、この第一審判決の判断過程を前半と後半とに切り離し、前半の考え方、すなわち、原判決のいう合理性基準説は、言論の自由ないし政治的自由の規制には適用がないものとし、言論の自由ないし政治的自由の規制の合憲性の判断は「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」という別の基準によるべきであるとしたものであるとした。しかし、第一審判決の摘示自体で自らかなように、第一審判決はどこまでもミッシェル判決の多数意見に従うという態度、すなわち、立法機関の第一次判断権を尊重するという態度をくずしていないのであるから、その判断過程で、昭和四〇年七月一四日の最高裁判決は労働基本権に関するもので、本件に適切ではないのかの如く説示している部分はあるが、それだけで第一審判決がミッチェル判決の多数意見であるいわゆる合理性基準説を離れて全く別の「より制限的でない他の選びうる手段」という基準によつたとすることは誤りであろう。そうすれば、第一審判決の問題点は、一方においていわゆる合理性基準説またはそれに近い立法機関の第一次判断権を尊重する立場をとるとしながら、他方において原判決が第一審判決はその基準をとらず立法機関の裁量権を小さく見ようとする別の基準によつたものと解せざるを得なかつたような結論に導いた点にあるといえよう。

そこで次に第一審判決が無罪の結論を導くに当つて考慮したという各種の事実を見ていくこととしよう。その中には前掲二の確定された事実の項で示したような認定の甘さを示すものがあるばかりでなく、考慮された各種のいわゆる立法事実には考慮すべからざるものを考慮し、または考慮するのを適当としないものを考慮した誤りがあり、しかも、これらの事実をいかに考慮しても、第一審判決のとつたという合理性基準説的理論に照らしても、また原判決のいう「より制限的でない他の選びうる手段」という基準に照らしても無罪の結論に導くものとは到底考えられないのである。

第一に、国家公務員法一〇二条、一一〇条、人事院規則一四―七の立法経過であるが、確かに第一審判決判示の如き占領軍当局の立法に対する圧力はあつたと認めるべき証拠がある。しかし、他面、政府および国会が占領軍当局としきりに折衝した事実も証拠上認められ、第一審判決もいうように、占領下とはいえ官公労を中心とする反政府的政治活動がゼネストにまで発展しようとした社会情勢もあつたのであるから、占領軍当局の圧力があつたという一事をとらえて、国会の制定した法律及びその委任に基づく人事院規則の効力を軽く見ようとすることは妥当でなく、また占領終了当時の法制の改廃の経過から国家公務員法一〇二条、一一〇条、人事院規則一四―七が改廃を要するのにそれをされないで取り残されたものとし、そのことを違憲判断の資料とするのも妥当を欠くのであつて、東京地方裁判所、刑事第二部昭和四四年六月一四日判決(東京地裁昭和四〇年特(わ)第五五五号公職選挙法、国家公務員法違反被告事件判決で、以下仮りにこの事件を統計局事件という。)が、本件と同じく国家公務員法一〇二条、一一〇条、人事院規則一四―九の制定改廃情況を問題とする弁護人の主張に対し、かかる事情はこの場合考慮に入れるべきではなく、裁判所としては法律の内容に憲法に適合しない点があるのか否かを判定すべきであるとしたのを相当と考える。

第二に、アメリカの立法例の中に本件のような行為に対する制裁としては、懲戒罰があるだけで、刑事罰はないとか、イギリスや西ドイツでは公務員の政治的活動が大幅に自由とされているとし、それらの事情を国家公務員法一〇二条、一一〇条、人事院規則一四―七の規制が厳し過ぎる理由としている点もミッチェル判決の多数意見がいうように、規制の程度の合理性の基準は「慣行、歴史および年々変化する教育的社会的経済的状況を基礎として生まれるものである」から、日本の事情との対比においてアメリカ、イギリス、西ドイツの各国におけるそれら各般の事情を調査しなければならないのにそれをせず、単に多数の公務員の政治活動が法制上自由であるとか、規制違反に対する制裁が軽くなつているというのみを捉えて、わが国の法律の批判の資料、殊に違憲判断の資料とすることは妥当を欠くというべきであろう。

第三に、最高裁大法廷がいわゆる中郵事件について周知のような判断を示したこととか、郵政職員が公共企業体等労働関係法の適用を受け労働関係について一般職公務員中特殊な取扱をされることとなつたこととか、本件における被告人の所為がその所属労働組合の決定に従つたものであることなどの事実を違憲判断の資料とする部分も、労働関係の規制の緩和の傾向が政治的行為の規制の緩和を不可分に招来するものでないことは当然のことで、むしろ公共企業体等労働関係法がいわゆる五現業についてその労働関係の規制を三公社と同様にしながら、政治的行為については、依然として国家公務員法の規制を残したという立法事情は、政治的行為の規制をなお従来どおり続けるのを妥当とするという国会の意思を示すものであつて、これを反対に考える第一審判決はいわゆる立法の先取りの非難を免れないであろう。また労働組合がその本来の目的を達するため政治行為に出ることは禁ぜられないとしても、国家公務員自身が政治行為をなしうるかどうかは別問題であつて、この点についても第一審判決の考えは誤つていると思う。

第四に、立法の先取りの著しい部分として、第一審判決の挙げるI・L・O一〇五号条約に対する政府の国会答弁と臨時行政調査会の答申に関する考慮とを挙げることが出来る。これらの点は、はじめての政府の国会答弁が行われた時または臨時行政調査会の答申が行われた時より現在まですでに相当の年月を経ているのであるが、いまなお政治問題として残されたままとなつており、殊にI・L・O一〇五号条約に関する政府答弁の内容は、その後たびたび国会で野党の追及があつたにもかかわらず実現されず、今日に至つているのであつて、それらの事情を措いて、裁判所がこのI・L・O一〇五号条約に関する政府の国会答弁や臨時行政調査会の答申を違憲判断の資料とするのは誠に相当でない。

第五に、第一審判決は刑法一九三条、一九七条、国家公務員法一〇九条八号、一二号を挙げて本件に適用せらるべき国家公務員法一一〇条一項一九号の刑と比較し、後者の刑を軽くないとしているが、その比較の適当でないことは、明らかであるばかりでなく、国家公務員法一一〇条一項一九号の適用を受ける行為の中には第一審判決も認めているとおり、上級公務員の誰が見ても不当な政治的行為までふくまれているのであつて、そのような事案にも適用される国家公務員法一一〇条の刑を他の刑法その他の刑とを比較して軽くないとすること自体誤つているといわなければならない。

また、地方公務員法では地方公務員の政治行為の規制違反について、刑罰の制裁のないことが考慮せらるべき事情として挙げられているが、地方公務員が政治的行為を行つた場合と国家公務員がそれを行つた場合とでは、必ずしも影響の及ぶところを同じくしないものと考えられるので、この比較も適当でない。

以上要するに、第一審判決が無罪の結論を導く過程において考慮したとする各種の事実は何れも考慮に値するものとは考えられないものである。

元来、国家公務員は主権を有する国民全体に対する奉仕者であつて、一部の国民に傾斜した奉仕をしてはならないものである。国民が全体として何を求めているかは、国民の総意の端的な現われである総選挙によつてきまるものであり、それがどのようにきまろうとも国家公務員は、一人一人が、そしてその勤務する官署全体が国民の総意の命ずるところによつてその職務を行い、一部のためにかたよつた行動に出てはならないのはもちろん、一部のためにかたよつた行動をする疑いを持たれるような行為をしてもならないのである。国家公務員法一〇二条、人事院規則一四―七が一般職国家公務員にかなり広い範囲にわたつて政治的目的のもとに行う政治的活動を禁止しているのもそのためである。このことは、前記統計局事件に関する東京地方裁判所の判決の特に強調する点で、同判決は国家公務員が選挙に当つて特定政党のための選挙活動をすることは一般国民に対し、その公務員の勤務する行政官庁が特定の政党とつながりを有するのではないかとの疑惑を持たせ、ひいては当該官庁の行政の公正な運用について一般的不安・不信を抱かせることになるとし、被告人の行為がたまたま文書の配布のようなことであつても、選挙活動というのは文書の配布にとどまらず、いろいろな態様のものに発展することがありうるわけであつて、例えば公務員が主催して特定政党、特定候補者のための公開の演説会を開催することも可能であること、一の政党の支持者にできることは他の政党の支持者にもできなければならないこと、そしてそれは全国的のあらゆる行政官庁の公務員にもできなければならないことであること、各種選挙のたびにその効果が累積されていくこと等を考え合わせてみると、公務員の選挙活動を放任した場合そのことが行政官庁の公正な運営について一般的に国民に与える不安・不信感等は軽視することができない。そしてこの観点に立つて考えると重要なのはむしろ当該公務員の勤務する行政官庁全体の性格であつて、個々の公務員の担当職務が、大なり小なり裁量権限のあるものか、それの全くない機械的事務であるかどうかは重要ではなく、ことに実際に行われる選挙活動の内容、程度とも不可分のことであつてみれば、下級の公務員についても、これを考慮の外におくことは、直ちに是認できないことであるとしなければならないとし、公務員が特定政党または特定の候補者のために選挙活動をすることを放任した場合に生ずる弊害として考えられるものは一でないとしても、その中で最も重視すべきものは、一般国民に対し、行政官庁の公正な運営について一般的に不安・不信・疑惑を抱かせるに至ることであり、その弊害を避けるために憲法一五条二項の規定による要請として、憲法二一条の保障する表現の自由にある程度の規制を加えることは、合理的な理由のないことではなく、右弊害が軽視できない程度のものであり、現行法の下においても公務員またはその組合に容認されている選挙活動の程度等をも合わせ考えれば、少くとも、同事件についてその適用を見ることとなる国家公務員法一〇二条一項、人事院規則一四―七、五項一号及び六項一三号中文書の配布(本件におけるポスター掲示配布と本質において異らない)に関する程度の規制は必要最小限度の規制に属し、さらにそれが一般国民にかかわる問題であつて、行政官庁の単なる内部事項として処理さるべき事柄でないことを考え合わせると、その違反行為に対し、刑罰の制裁をもつてのぞむことも理由のないこととはいえないとしているのである。

この考えは、刑罰の点を除き、基本的には第一審判決の引用するアメリカのミッチェル判決の多数意見と異ならないのであつて、それは本件記録添付の同意見を仔細に検討すれば明らかである。殊に同判決は、その対象となつた被告人が造幣局の圧延工という、文字通りの意味の機械的労務の提供者に過ぎないことを念頭に置きつつ、そのような公務員の勤務時間外の政治活動であつても、勤務時間外であるからといつて悪影響が少くなるわけではないこと、議会は政党の指導者が政党機構をつくるうえにこれらの公務員を手軽な要員となると考えたかも知れないこと、右の圧延工と同じような政策決定に影響を及ぼさない地位にある者が何十万といて、連邦議会がおそれたのは明らかに政治活動にひきこまれるかも知れないすべての公務員による政治活動が公務員のモラルに及ぼす累積的影響であるとしているのであつて、十分参考に値する見解といえよう。

のみならず、刑罰の点においても、アメリカの連邦刑法典により刑罰の制裁をもつて臨まれる公務員の政治的行為の中には国家公務員法一〇二条、人事院規則一四―七によつて禁止される政治的行為に近いものもふくまれているのであつて、アメリカにおいても公務員のすべての政治活動の規制違反が行政罰のみでないことを知るのである。

ひるがえつて、わが国の現状を見るに、郵便局員が選挙のたびごとに全国的な組織を利用して特定政党または特定候補者のために選挙活動をしていることは顕著な事実であつて、検察官が原審公判において提出した各地の判決例にもその片鱗が現われているのである。こういう現象は、郵便局員が一般職の国家公務員である限り、好ましくないものとして、国会及びその委任を受けた人事院がその弊害の拡散、累積を心配し、その政治活動をなお厳しく規制しようとしていることにも十分合理性があることを示す資料となろう。

従つて、その合理性を否定すべき明白な理由を示すことなく、しかも、否定の基準すら示さず、被告人の本件所為のみを各種の角度からことさらに軽くかつ影響の乏しいものと認定して、それに外国の法制や判決を抽象的な表現のみをとらえて参考とし、一方、国家公務員法や人事院規則の該当条文をその文言より狭く解釈する余地がないとしながら法令自体の違憲判断をさけ、本件に当該法令を適用する限度において同法令は違憲であるとする従来にない思考方法(この点については次の判例違反の項でも触れる。)をとつて、被告人を無罪とした第一審判決及びこの第一審判決をその複雑な思考方法を簡単な形に直し、いわゆる合理性基準説をとらず、「より制限的でない他の選びうる手段」という基準を用いて第一審判決め結論を支持しようとした原判決は、ともに憲法の解釈を誤つたものといわざるを得ないのである。

(二) 判例違反

原判決が、国家公務員法一一〇条一項一九号が本件所為に適用される限度において憲法二一条および三一条に違反するから適用できないと判断した第一審判決の判断は相当であるとしたのは、判例に反する判断をしたものである。

その理由を具体的判例を挙げて説明する前に、第一審判決及びこれを支持した原判決の憲法判断の方法につき一言疑問を述べておきたい。

周知のとおり、本年四月二日の二つの大法廷判決(前掲のいわゆる都教組事件および仙台全司法事件)は、地方公務員法三七条六一条四号または国家公務員法(昭和四〇年法律六九号による改正前のもの)九八条五項、一一〇条一項一七号の合憲性を判断するに当り、法律を文字どおり解すれば違憲の疑があるが、法律の規定は可能なかぎり憲法の精神に即しこれと調和しうるよう合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば右各法律の規定は直ちにこれを違憲とすることはできないとしつつ、いわゆる都教組事件においては原判決を破棄して被告人らを無罪とし、仙台全司法事件においては被告人らの上告を棄却しているのである。その結論の当否はいま本件に関係がないので暫く措き、右に述べた両判決の違憲立法審査権行使のあり方は、本件第一・二審判決のそれと異るものがあることに注目しなければならない。本件第一審判決は、右両判決の出る前であつたが、右両判決のような解釈方法が本件ではとりがたいものであることを示すため、前述の如く、国家公務員法一一〇条一項一九号は「同法一〇二条一項に規定する政治的行為の制限に違反した者という文字を使つており、制限解釈を加える余地は全く存しないのみならず、同法一〇二条一項を受けている人事院規則一四―七は全ての一般職に属する職員にこの規定の適用があることを明示している以上」、ここにも解釈によつて適用範囲を狭める余地がないとし、結局、「当裁判所としては、本件被告人の所為に、国家公務員法一一〇条一項一九号が適用される限度において」同号が憲法二一条および三一条に違反するとしているのである。しかし、法文の文字上の明確性からするならば、大法廷の右二判決の対象とした地方公務員法及び国家公務員法の各規定でも同じであつて、それにもかかわらず、法律はその上位規定である憲法の精神に即してこれと調和しうるよう解釈すべきであるとするのが大法廷の考えであつた。仮に同じ結論に到達するとしてもその思考過程において、本件第一審判決は大法廷のそれと異るものがあり、それが、ひいては、法律適用の基準の不明確性を招来する点において、大法廷的思考方法に比し、より著しい結果を生むに至つているものと推測されるのである。なぜならば、大法廷的思考方法においては、一応法律の解釈が示されることとなるのに反し、本件第一・二審判決の如き思考方法をとれば特定法令が本件には適用されないというだけあつて、「本件」の意味をどこまで一般化しうるか必ずしも明瞭でないからである。しかし、ここでは第一審判決のこのような特異な違憲立法審査権の行使方法を指摘するにとどめ、その方法の特異性にもかかわらず、それは結局国家公務員法一〇二条、一一〇条一項一九号、人事院規則一四―七、六項一三号の一部違憲をいうものと異らないものであるとし、従来の判例との関係を考究することとする。

まず、判例違反の対象判例として、第一審以来問題とされている昭和三三年三月一二日および同年四月一六日の大法廷判決(刑集一二巻三号五〇一頁および同六号九四二頁)を挙げたい。この両判決の判決要旨は、判例集によれば国家公務員法一〇二条は憲法一四条に違反しない、または国家公務員法一〇二条は憲法一四条および二八条に違反しないとなつていて、本件で問題とされている憲法二一条との関係が挙げられていない。そのためか、本件第一審判決も原判決も、これを本件に関係のない判例としている。しかし、両事件の上告趣旨は、ともに、憲法一四条のほか憲法二一条を挙げ、憲法二一条の表現の自由を公務員なるが故に奪う国家公務員法一〇二条は憲法一四条に違反しているという論理構造をとつているのであるから、その主張の中心は憲法二一条違反にあつたとも見られるのである。このような主張に対し右大法廷判決は、公務員はすべて全体の奉仕者で一部の奉仕者でなく、行政の運営は政治にかかわりなく、法規の下において民主的且つ能率的に行わるべきものであるところ、国家公務員法の適用を受ける一般職に属する公務員は、国の行政の運営を担任することを職務とする公務員であるから、その職務の遂行にあたつては厳に政治的中正の立場を堅持し、いやしくも一部の階級若しくは一派の政党又は政治団体に偏することを許されないものであつて、かくてはじめて、一般職に属する公務員が憲法一五条にいう全体の奉仕者であるゆえんも全うせられ、また政治にかかわりなく法規の下において民主的且つ能率的に運営せらるべき行政の継続性と安定性も確保されうるものといわなければならない。これが即ち国家公務員法一〇二条が一般職に属する公務員について、とくに一党一派に偏するおそれのある政治活動を制限することとした理由であるとしたうえ、この点において一般国民と差別して処遇されるからといつてもとより合理的根拠にもとづくものであり、公共の福祉の要請に適合するものであり、これをもつて所論のように憲法一四条に違反するものではないとしたものであるから、実質は憲法二一条の表現の自由に関し、国家公務員法一〇二条の制限の合理性のあることを論じたものと解することができる。このことは、昭和二三年一二月一日大法廷判決(刑集二巻一三号一六六一頁)が黙示の合憲判断を認めていることに照しても明らかであつて、本件第一・二審判決が一部にせよ国家公務員法一〇二条、一一〇条の違憲をいい、本件につきその適用を拒否したことはまさにこの大法廷判決に反する判断をしたものというべきである。

第一審判決は、右大法廷判決のほか、昭和三三年五月一日第一小法廷判決(刑集一二巻七号一二七二頁)に言及し、これらには、前認定のような職務内容を有する非管理者である郵政事務官の勤務時間外にした人事院規則一四―七、六項一三号に該当する所為を国家公務員法一一〇条で合憲的に処罰できるかどうかという具体的判断はなされていないとし、原判決もこれを受けて、検察官がその控訴趣意書において、第一審判決の考え方は右最高裁判所の判例に反するとしたのをしりぞけているが、なるほど、右三判例のみならず、国家公務員法一〇二条と憲法二一条または一四条・二八条等の関係を論じた従来の他の判決例も、本件第一審判決の認定したごとき具体的場合を意識的に対象としてとり上げて法律論を展開したものではない。

しかしながら、すべての事件はそれぞれ具体的事実関係を異にするので、具体的事実関係を細かく認定し、それについての判例を求めても、その認定が細かくなればなるほど適切な判例は見当らないということになるであろう。しかし、判例というのは具体的事件を通じて示された裁判所の法律見解であるが、特定の具体的事件に適用されるだけではなく、それを越えて適用範囲を持つものでなければならない。ただどこまで適用範囲が広がるかについては、それぞれの判旨により広狭の差があり、また見解の違いの生ずるところではあるが、第一審判決の如く、本件のような事件についての具体的判断はなされていないということだけで先行裁判例の判例性を否定することは間違つていると思う。その意味で少なくとも、右昭和三三年三月一二日および同年四月一六日の大法廷判決の本件に対する判例性を否定するのは妥当でないと考える。

次に、昭和四〇年七月一四日の大法廷判決(民集一九巻五号一一九八頁)と本件との関係につき検討を加えたい。この判決は、専従休暇不承認処分取消請求の民事訴訟に関するものであるが、そこに示された違憲立法審査権のあり方に関する部分は、事案の相違を越えて妥当する性質のものと考えられる。すなわち、同判決は、地方公務員法五二条と憲法二八条との関係について、「憲法二八条の保障する勤労者の団結権等は、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とし、みだりに制限することを許さないものであるが、絶対無制限のものではなく、公共の福祉のために制限を受けるのはやむを得ないこと当裁判所の屡次の判決の示すところである。そして右制限の程度は、勤労者の団結権等を尊重すべき必要と公共の福祉を確保する必要とを比軽考量し、両者が適正な均衡を保つことを目的として決定されるべきであるが、このような目的の下に立法がなされる場合において、具体的に制限の程度を決することは立法府の裁量権に属するものというべく、その制限の程度がいちじるしく右の適正な均衡を破り、明らかに不合理であつて、立法府がその裁量権の範囲を逸脱したと認められるものでない限りその判断は合憲適憲なものと解するのが相当である」としているのである。この判示は、第一審判決がいうように直接には労働基本権に関するものであるが、それに限定して論ずるという趣旨は少しも見られず、むしろ労働基本権の問題に関連して基本的人権一般の規制に関する裁判所の違憲立法審査権のあり方を示したものというべきである。

原判決は、第一審判決がこの判決に言及しながら、その判旨とする違憲審査の基準によらず「より制限的でない他の選びうる手段」という基準に準拠したと判示し、第一審判決が、労働基本権と言論の自由に関する基本的人権とでは違憲審査の基準を異にすべきであるとしたことを妥当としているが、右昭和四〇年の大法廷の判例のどこにも労働基本権に限りこの基準に準拠するという趣旨をうかがわせるものはなく、むしろ、右に述べた如く裁判所の違憲立法審査のあり方を示したものとすれば、原判決及び第一審判決は、ともにこの判例に反する憲法判断を行つたものと評せざるを得ない。

最後に、昭和三四年六月一二日福岡高等裁判所宮崎支部判決(同裁判所昭和三三年(う)第六一号国家公務員法違反被告事件)を挙げておきたい。事案が本件に酷似しているのである。すなわち、この宮崎支部の事件は、鹿児島県霧島郵便局の事務員で保険の勧誘集金等外務職に従事する一般職の公務員であつて、かつ全逓労組の支部執行委員であつた被告人が昭和三一年の参議院議員通常選挙に当り、所属労組の選挙対策に従い、所要のため立ち寄つた三軒の家で組合の推せんする候補者のための投票勧誘の選挙運動をしたというのである。本件と同じように非管理職の現業公務員が勤務時間外に国の施設を利用することなく、かつ職務を利用し若しくは職務の公正を害する意図なしに行つたものと認められる。もつとも、本件第一審判決の如く意識して事案の具体性を細部まで確定したうえその法律見解を示していないので、本件第一審判決は、この宮崎支部の判決をもつて本件のような争点についての具体的判断はなされていないとして、その本件に対する判例性を否定しているが、この宮崎支部の判決もその判決面にこそ現わしていないが、その法律判断の前提事実として証拠上に現われた事実はこれを考慮に入れていたと見るのが裁判実務の常識であるから、もし、宮崎支部が本件第一・二審判決のような具体的事実関係に重点を置く考えをとつておれば、本件第一審判決と同じような細かい事実認定を行つたうえ、おそらく合憲に処罰しうるとの結論を出していたであろうと推測されるのである。そうすれば、宮崎支部判決のとる考え方は、まさに本件第一・二審判決とのその法律見解を異にするのであつて、ここにも本件第一・二審判決の判例違反があるものと解すべきである。

以上のほか、郵便局の職員の選挙運動を国家公務員法一〇二条違反として処罰した裁判例は非常に多い。このことは、原審公判に提出された裁判例によりその一端をうかがうことができるであろう。もつともこれらの事例は、主として選挙法違反を伴うものであり、前掲統計局事件の判決も、そのことを合憲処罰の一つの根拠にしているようであるが、全国的に見れば、選挙法違反を伴わず、政治行為禁止違反のみで処罰された事例(例えば前掲の昭和三三年五月一日第一小法廷判決の事例)もあるばかりでなく、かりに選挙法違反を伴うものであつても、選挙法違反を伴うから国家公務員法違反にもなるという論理には必ずしも納得し難いものがあるので、判決文の上に本件第一・二審判決の如く具体的詳細な事実認定とそれに即した法律見解が示されていると否とにかかわらず、また選挙法違反を伴うと否とにかかわらず本件第一・二審判決の憲法判断の当否を判断するに当つては、これらの先例が参照されるべきものと信ずる。

かくして、原判決及びその前提となつた本件第一審判決は従来の最高裁判例または高裁判例に相反する判断をしたもので破棄を免れないものと信ずる次第である。             以上

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